北本市史 通史編 近代

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第1章 近代化の進行と北本

第1節 地方制度の変遷

1 府藩県治下の北本

浦和県の設置と御用会所の設立
明治二年(一八六九)九月二十九日、「大宮県、自今浦和県卜被レ称候事」(『県史資料編一九』№二)とする太政官布告が出され、大宮県は浦和県と改称されることになった。「石高ノ増減ナク、唯(ただ)改称ノミ」(前掲書)とあるが、実際は県庁(県庁の名は明治三年二月三日より正式名祢となる)の所在地を大宮宿から浦和宿に移すという変更を伴うものであった。これに対して、県北の村々からは反対の動きが起こった。例えば大里郡の村々は大宮宿ならば出庁事務が一日ですんだが、浦和宿では二日がかりとなり、村入用が増大する。大里郡は不便きわまりないので、大宮宿に県庁を建設して欲しいという嘆願(たんがん)をしている(『県史通史編五』P四二)。
大宮県から浦和県への改称の真相は詳(つまびら)かではないが、正式庁舎の建設地をどこにするかの選定によるものであり結局、県庁の場所が浦和宿に選定されたことにより、県名も「浦和県」と改称されたとするのが大方の見解となっている。
大宮県事  浦 和 県
右の通今般相改候間、小前末々迄不洩様可触達もの也
(明治二年)
九月廿五日  大 宮 県
(組合村名路)

(県行政文書明三六七九)


以上はこの時の改称の布達である。
県庁所在地は浦和宿の鹿島台と定められた。ここに県は別所村と岸村にまたがる一万四九四一坪の「県邸」を建設する。日本橋から六里三町二三間の地である。新県庁は明治三年(一八七〇)正月に開設され、従来の東京馬喰(ばくろ)町(現東京都中央区)の御用屋敷(旧郡代屋敷)に代わって、新庁舎での執務が開始された。県庁建設費用は、当初見込の八六五〇両を大幅に超(こ)え、一万九九二五両に膨らんだ。この内、三〇〇〇両は管内村々からの献金で、残り三分の一を政府が、三分の二を各村から石高割で徴収することになった。しかし、管内の村々は水害による凶作で疲弊(ひへい)しており、年貢に加えて新たな賦課は事実上不可能であったので、当初見込みの三分の二の五七六六両は年貢米金の内から「拝借金」の形で政府から前借りする形で捻出(ねんしゅつ)した。この借金は、同四年十一月に埼玉県に移行する際に継承されたはずであるが、その後のことついては不明である。
浦和県の管轄地は、豊島・足立・埼玉・横見・大里・男衾(おぶすま)の六郡二九万六七四〇石余で、戸数五万二〇七二戸、人口二七万九九四七人を管轄対象とした。県庁の機構は、司農局・刑法局?監察局?庶務局それに租税方に分かれ、明治四年(一八七一)四月現在の官員数は七五名となっていた(『県史通史編五』P四四)。その他、明治三年十二月ごろには本庁のほか、板橋宿、鴻巣宿、粕壁(かすかべ)宿、羽生(はにゅう)宿に出張所が設けられていた。
県庁機構が整備されていく一方で、管轄下の宿村の行政組織は旧幕藩体制下の組織や制度がそのまま継承されていった。しかし、村役人を決めるのに入札制を採用したこと、寄場(よせば)組合が改編されたこと、同年に御用会所が設けられたことなど、若干の改編は行われた。
明治元年十月、民政裁判所は、関東の村々が御一新のため江戸時代以来の寄場組合の体制がくずれ、大小惣代も廃止となったことを憂いて、旧来の寄場組合を継承する指示を布達した(『県史通史編五』P四六)。
寄場組合は、通常三、四〇か村で構成され、その中心村落(親村)を寄場と称し、名主の有力者が寄場大惣代又は小惣代として組内の各村の名主を統轄した。その組織は命令伝達機構と小地域の治安維持組織として機能していた。
同二年八月、この寄場組合体制は改正され、天領・藩領の入り交ったものから、府藩県限りの組合となり、北本市域は鴻巣宿組合の支配域に入っていた。しかし、同三年四月、浦和県ではこの寄場組合の名称を廃止し、代わって御用会所組合が設定される。しかしこれは従来の寄場組合の範囲をそのまま御用組合としたもので、やがて同四年八月には戸籍区に変わっていった。
御用会所は御用組合の中央区に設置されたもので、「会所主意書」(県行政文書 明三二)によれば、上意下逹、下情上達を旨とする政府・県の行政の徹底をはかるための機関であった。具体的には支配事務の画一化、組合内の融和(ゆうわ)、凶荒(きょうこう)予備法の設定と運営、勧農(かんのう)方法の決定、訴訟の事実関係の取調べと教諭など、「衆議」をつくし会所運営を行うことが定められていた。この会所の審議は「議事」といわれ、西欧の二院制を模して、上議役と下議役の二役制がとられ近代的な議事制度の先がけをなすものであった上議役は寄場惣代に代わった会所惣代のうち、大地主か大商人の資産家から選ばれ、下議役は名主、組頭のほかに組合村々の有能者から同様に官選で選ばれた。
明治三年(一八七〇)十二月には北本市域を含む鴻巣に浦和県出張所が置かれ(他に羽生、粕壁(かすかべ)、板橋)、会所は議決機関としての性格を強めて、大小惣代から各村の有志の一般燃民も参会する会議の場所に改正された(『県史通史編五』P四九)。やがて大小惣代が廃止され、会所運営は会所世話役が行い、毎月一回、各村から公選された「会議人」が集議する場となった。その審議内容は、主に年貢の検見(けみ)法実施の円滑化や捕亡(ほぼう)手配に関することが中心で、県に答申する諮問(しもん)機関としての機能を果たした。
「組合御用会所大略之仕法」によれば、その実建は旧寄場組合の大・小惣代(そうだい)の内一名が当番の旧村役人とともに日勤し、村々からの願いを提出する際、従来の大・小惣代の印に代えて、新たに組合の印を用い、訴訟(そしょう)等で旧名主・組頭ら旧村役人が処理し難い場合は、奥書した上で奥印し、県に願い出ることになった。また、従来の大惣代は御用会所大惣代と称され、小惣代はそのまま組合小惣代と呼ぶこととなった(『県史通史編五』P四五)。戊辰(ぼしん)戦争期は、全国的に村役人の公選化が進むが、大宮県下においても、公選化が始まる。市域の本宿村でも前述したように明治ーー年二月、村方隔年(かくねん)勤名主願書(近代№一一 写真3)の写しがあり、名主役の入札人選が行われるが、いずれも小前百姓であるので組頭が年番名主を勤めることになった。御用会所が設置されると、その役員は旧来の村役人層等の豪農層から有力な有能者が官選された。浦和県では全国に先がけ「議者」(「議役」)が選ばれ、会所惣代から上議役が、名主・組頭等から下議役が選ばれ、毎月十日に定例会がもたれた。

写真3 村方隔年勤名主願書写

(岡野正家 104)

御用会所の設置の最大のねらいは、「上下之中間ニ置、情実互ニ相通シ、朝ニ令スル所タニ行ワレ候様」(県行政文書明三二-五四)という朝令暮改の新政府の「布告」と、県の行政を徹底することにあり、そのために上意下達の徹底と民意の集約、民衆の教化をはかる必要があった。そこで、県では明治三年、会所積金基立(もとだて)の法、凶荒(きょうこう)予備仮法を定め、御用会所に備荒貯蓄(びこうちょちく)・窮民救恤(きゅうみんきゅうじゅつ)のための出納を取り扱わせ、祝事等の質素化の仕法を立案することを指示している。
御用会所の運営は、先述したように旧寄場組合の大小惣代と旧村役人層で運営されており、彼らが、農民支配や村支配に独自の権威を持つという慣行(かんこう)が続いていた。そのため県は明治三年(一八七〇)十二月、会所運営の改革案として、毎月二日ずつ大小惣代だけでなく、小前百姓有志に至るまで自由に参集し会議することを定め、金穀の出納(すいとう)もこの会議で議決すべきことを指示した。さらに県は、同四年二月二十九日に大惣代・小惣代の名称を廃止した。以後、御用会所の運営は世話役及び世話役補を選び行われることになった。
このように維新後の村々では、明治三年までの過程では、政治権力の交代はあっても、支配される町方、宿村々においては大きな変化はなく、行政組織も構成も旧幕藩(ばくはん)体制下となんら変わることなく存続していたのである。むしろ、明治維新の改革は、名主や組頭という旧村役人層に行政の末端を担(にな)わせることによって、徐々(じょじょ)に進行していったといえる。同四年の廃藩置県以前の、「府藩県三治制」の時代は、封建時代の地方行政から近代的地方制度への過渡的段階であったとみることができる。
また、浦和県の定めた「御用会所取扱規則」によれば、会所は県より配分された基立金と村高一〇〇石につき一日一〇〇銭を村人に積立させたり、商人の所得に応じた積立金や有志者の寄付金を加えた資金を「組合御用会所積金」として運用し、窮民(きゅうみん)救済や農民の肥料購入、商人への貸付金として貸し出された。これは、先の凶荒予備法や勧農(かんのう)方法を具体化したものであり、他に貯穀制や冠婚葬祭規則、取締体制の規定など、浦和県の御用会所は江戸時代の行政主導体制の影響が強く残ったものであった(『県史通史編五』P四九)。

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