北本市史 通史編 近代
第1章 近代化の進行と北本
第1節 地方制度の変遷
1 府藩県治下の北本
浦和県下の戸籍区制表2 戸籍区の設定
戸籍区名 | 御用会所組合名 |
---|---|
第1区 | 浦和宿組合 |
第2区 | 蕨宿組合 |
第3区 | 板橋宿組合 |
第4区 | 鳩ヶ谷宿組合 |
第5区 | 大門宿組合 |
第6区 | 袋山村組合 |
第7区 | 粕壁宿組合 |
第8区 | 久喜町組合 |
第9区 | 加須宿組合 |
第10区 | 羽生宿組合 |
第11区 | 上中条村組合 |
第12区 | 鉢形村組合 |
第13区 | 千代村組合 |
第14区 | 胃山村組合 |
第15区 | 大和田村組合 |
第16区 | 鴻巣宿組合 |
第17区 | 桶川宿組合 |
第18区 | 上尾宿組合 |
第19区 | 大宮宿組合 |
第20区 | 深作村組合 |
(『県史資料編№19』より作成)
明治維新政府の当面の課題は、中央集権的統治を行うために維新の混乱で生じた脱藩者や浮浪(ふろう)の徒の取締りにあった。そのため戊辰(ぼしん)戦争時から土地掌握(しょうあく)とともに、人的把握を意図して戸口調査を実施していた。早くは慶応三年(一八六七)の大政奉還(ほうかん)ののちの明治元年(一八六八)十月、十一月に京都府では市中戸籍仕法・郡中戸籍仕法・士籍法・卒籍法及び社寺籍法を制定した。明治二年六月新政府はこれを他府県に施行するよう命じたが、同年十月の東京府戸籍編成法のように各府県で別個の戸籍法が施行されていたため、全国的戸口調査を実施するために全国統一の戸籍法にまとめる必要が求められ、同四年四月四日、「戸籍法」として制定公布した。
戸口調査は租税賦課(ふか)の基礎として、政治上重要な施策の一つであるが、新政府は、すでに実施されていた各府県の先駆(せんく)的な試みを集約する形で、この全国的な戸口調査の実施を命じたのである。施行は翌五年(壬申(じんしん)の歳(とし))二月であったので、通常この年に編成された戸籍を「壬申戸籍」という。封建体制下の宗門改帳の石高別、名主・高持・水呑などの身分別記載(きさい)方式によって作成された明治三年の「庚午(こうご)戸籍」を改めたもので、新たに身分関係を華族(かぞく)、士族、神官、僧侶、平民に区別し、土地を基本として法律の支配関係を定める属地(ぞくち)主義を採用し、明治五年二月一日以降の登録の形で作成された。この「壬申戸籍」は、華・士族の称(しょう)や旧幕藩体制下の同和地区の人々を一括掲載(けいさい)するなど、新たな身分差別を生み出し、後世に問題を残した。この身分登記制が廃止されるのは大正十四年(一九二五)のことである。
戸籍法は、先述したような人的把握の側面とともに、中央集権的な行政組織の創出という側面も持っていた。新政府は戸籍事務処理のために新たに「区」を設定し、戸籍吏として戸長・副戸長を置くことを定めていた。この「区」は、いわゆる「戸籍区」と呼ばれ、戸長・副戸長は当初は戸籍編成の事務官吏として、府知事や県令によって任命されたが、旧体制時の村方三役をそのまま任用する場合と、他の者を充(あ)てる場合とがあり、地域の実情にそって任用された。やがて戸長・副戸長は、土地、民生等の社会全般にわたる事務も取扱うようになると、旧来の村方三役(名主・組頭・百姓代)と戸長・副戸長が異なる場合は、両者に権限の競合が生じ、地方行政の一つの問題となった。その結果、政府は、明治五年(一八七二)四月九日、旧来の村方三役の名称を廃止し、新たに戸長・副戸長とすることと、大区に区長一名、小区に副戸長を一人置くという大区小区制の原則を示した。これによって、府県に大・小区、その下に町村を置くという、中央集権的な新たな支配方式が生まれたのである。しかし、大・小区の規模は四、五若しくは七、八か村を組み合せるというもので、これも府知事、県会の裁量に委ねられていて、全国一律の方式ではなかった。
埼玉県では、区の設定は明治五年(一八七二)三月に行われ、二四の区(戸籍区)を設け、それぞれに正・副戸長を置いた。区の設定は、旧浦和県時代の明治四年四月の戸籍法制定後の同年七月に、組合の名称を改めて、すべて戸籍区を設定していた。市域の村々は、鴻巣宿組合に属していた村は第十六区に、桶川宿組合は第十七区に編成された(表2)。
また、同月に断行された廃藩置県(はいはんちけん)に伴って、十一月、埼玉県域は、新たに埼玉県・入間県の二県に統合され、市域は、浦和県から埼玉県の管轄となった(近代№一四)。(図2)
図2 埼玉県の藩県変換図
(『浦和市史通史編3』P.30より作成)