北本市史 通史編 近代

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第1章 近代化の進行と北本

第1節 地方制度の変遷

2 埼玉県の誕生と区・戸長制の実施

埼玉県下の区制と戸長制

写真4 明治24年に新築された埼玉県庁舎

(『目で見る埼玉百年』P16より)

政府は、区の設定に併行して、明治五年(一八七二)四月旧来の村政担当者である名主(庄屋)、組頭の称を廃止し、戸長、副戸長、保長、百姓代、伍長の制に改めた。戸長は区内の一切の事務に関わり、全体を統括(とうかつ)し、副戸長は旧名主の仕事を引き継ぎ、その事務全般を担当して戸長を補佐した。新たに置かれた保長は二五戸を一組とし、副戸長を補佐してその事務を分担し、百姓代は一保から一名ずつ選出され、伍長は年番で小前惣代として租税の徴収や村費の割当てに立ち会うものとされ、旧体制下の五人組の長としての性格を持つものであった。
同年十月には行政組織を強化するため、政府は町村に対して正副戸長制の実施を命じた。これを受けて埼玉県は同七年二月、この制度を実施し、各区に区長一名、副区長八名を從き、区の行政全体を管掌(かんしょう)させた。さらに、各村々には戸長を一名(大村の場合は数名)置き、一保(二五戸)に副戸長一名を置き、事務を担当させ、従来入札で選出されていた戸長及び正副区長は官選となった。この新たな区制では、表3にあるように市域の諸村は第一七区及び第一八区に属することになった。明治九年(一八七六)一月一日調べの正副戸長名簿(近代№一七)によると、第一七区の区長は福島耕助、副区長は横田三九郎他二名、第一八区の区長は倉田春平、副区長は矢部定右衛門他三名が任命された。
表3 埼玉県の区制と正副区長
会所位置人  口町村数区 長副 区 長学務・医務取締
第 一 区草 加一九、四〇二人五三諸木弥十郎藤波小弥太、朝田隼太郎大川弥惣右衛門
第 二 区越ケ谷一七、ハ一三人二八高橋荘右衛門井出庸造、中村賢之助、野口八郎左衛門細沼貞之助
第 三 区彦 倉一ハ、〇五一人八一戸張 七郎麋波弥三郎、息 多田又三郎、斉藤育三郎高 麗 新 八
第 四 区松 伏一三、四九七人二七鈴木 彰小川五郎資、中村久左衛門、井上源兵衛小 林 貞 斎
第 五 区粕 壁二〇、四一七人五一斉藤誠次右衛門新井斉輔、神田八十吉大垣六郎左衛門
第 六区杉 戸一六、四〇四人三一野 ロ 直 之知久又四郎、渡辺徳太郎坂斉一郎次
第 七 区幸 手一九、三一八人三三中 村 元 治堀中謙三郎、巻島吉十郎、稲垣勘左衛門間 中 進 之
第 八 区栗 橋一七、九八五人三四池 田 鴨 平松島要一郎、島田耕平、秋庭豊五郎足 立 柔 郎
第 九 区久 喜一六、〇一九人二九吉 田 元 輔本謙次郎、斉藤幸右衛門、高橋荘之亟関根平次郎
第 一〇 区騎 西一四、七五六人二六帰脚豎噸、若山喜兵衛、小山祖一郎新 井 耕 作
第 一一 区加 須一五、七三二人二六古沢佐右衛門根岸七兵衛、古沢為三郎川 島 喜 蔵
第 一二 区不動岡一八、六七九人二九川辺郷左衛門吉沢利三郎、田村四郎左衛門、岡戸文右衛門鎌 田 与 八
第 一三 区羽 生一七、八七五人三一越 庭 七 郎斉藤新右衛門、斉藤僖右衛門、平野喜代三郎ー藤 井 操 軒
第 一四 区行 田ニニ、五三二人一七加藤栄之助梅沢帆五郎、市川波江樋口利喜太郎
第 一五 区池 上一〇、〇三三人一九長谷川敬助島田俊輔、小林兵右衛門稲村貫一郎
第 一六 区持 田一二、七二六人二〇島崎新五右衛門岡田金兵衛、保住源左、桜井彦三山崎祥一郎
第 一七 区鴻 巣ニニ、〇四八人三九福 岛 耕 助常見喜右衛門、横田三九郎、横田重右衛門長嶋又七郎
第 一八 区桶 川二八、八二九人四四倉 田 春 平矢部定右衛門、府川得二、栗原七郎、森田賢一郎戸井田彦兵衛
第 一九 区上 尾二四、〇四九人五六八木橋七兵衛吉田富音、宮島耕三内 村 網 三
第 二〇 区岩 槻一八、三四二人四二上 村 政 敏河野孝義、斉藤保進真々田幸栄
第 二一 区大 宮二三、七四一人六七井 原 揆 一島村幸内、湯沢源右衛門榎本佐佐衛門
第 二二 区浦 和一八、八八〇人五〇岡村正貞、石塚真平、天野三郎辻 村 彦 八
第 二三 区 蕨二四、六九五人三四岡 田 正 徳秋元康恕、飯島万右衛門、永井良輔室 木 喜 平
第 二四 区鳩ケ谷一八、一四〇人六〇船津徳右衛門板橋伊左衛門、中村七左衛門大 竹 大 助
第 二五 区 椿一二、四六五人四二関 ロ 桂 斎石川得郎、田中喜右衛門松 村 橘 郎

(『県史資料編19』附録P7~23より作成)


さらに、第一八区の石戸宿村(戸数一四七戸)、下石戸下村(同八〇戸)、第一七区の深井村(同六〇戸)、宮内村(同六〇戸)、高尾村(百八五戸)、荒井村(同一一一戸)、別所村(三三戸)の各村々からは戸長が選出されたが、比較的大村の中丸村(戸数百二三戸)からは選出されていない。このことから、村々には必ずしも戸長が置かれておらず、実質的な行政事務は副戸長が行っていたことが窺(うかが)われる。なお、事務所は、戸長や副戸長の自宅が当てられ、戸長役場と称された。
また埼玉県は、明治五年(一八七二)三月に二四区毎に会所を設置する布達(ふたつ)を出した。区制は先述したように戸籍事務を主とする戸籍区として置かれたが、この会所は寄場組合の系譜(けいふ)をひく御用組合会所の影Wで、取締組合の性格をもつものであった。同年四月、埼玉県は区毎に捕亡(ほぼう)方付属六人を置き、区内の高割をもって経費の支出を命じている。以前は、捕亡手先・捕丁・下捕亡などもいたがすべて廃止され、六月には捕亡方付属に一本化され、一等、二等付属というように格付けされた。このように、取締体制は他県より重層化されていった(『県史通史編五』P七八)。
埼玉県の場合、各区会所は寄場組合の伝統により、街道の交通の要衝地(ようしょうち)に置かれた。区制は、表3正副区長を中心に、表4の第一八区のように各町村におかれた正副戸長が合議して決める体制であった。
表4 第十八区正副戸長名簿               (明治九年一月一日調)
組 合 村旧 高反 別居 村職 名姓 名
石 宿 村百七拾六石四升七合六拾六町四反四畝廿ハ歩百四十七石戸宿村
同 村
同 村
同 村
戸  長
同  副
 同 
 同 
鈴木善右衛
鈴木源次郎
横田伊佐蔵
井野
広吉横田金五郎
高松四郎左衛門
下石戸下村三百九拾八石壱斗八升九合百二町八反五畝九歩八十下石戸下村
下石戸上村
戸  長五味定右衛門
吉田徳太郎
本 宿 村五拾八石五斗三升八合廿二町六反五畝廿壱歩四十一本宿村
上日出谷村
副 戸 長岡野七郎兵衛
原島長五郎
下石戸上村三百七石八斗八合七勺三才八拾六町壱反九畝九歩八十下石戸下村
本宿村
副 戸 長中村浅五郎
岡野彦四郎
山 中 村五拾二石壱斗六升五合廿二町壱反五畝拾六歩十六中 丸 村副 戸 長加加
中 丸 村四百八拾壱石三斗七升九合百廿九町壱反四畝拾六歩  百廿三
  百丗九
同  村
同  村

加藤清兵衛
加藤新右衛門
谷口平右衛門
加藤与左衛門

(『市史近代』№一七より引用)


表5 第拾七区正副戸長名簿
組 合 村旧 高反 別戸 数居 村職 名姓 名
深 井 村三百五拾石弐斗七升八拾五町七反三セ壱歩六拾戸深 井 村戸  長清水述之助
宮 内 村四百三石七斗三升八拾六町四反弐セ歩六拾戸宮 内 村戸  長松村源兵衛
東 間 村八拾七石弐升四拾町八反九セ六歩五拾壱戸 同 
 同 
東 間 村
副 戸 長
 同 
 同 
 同 
大島周吾
松村末吉
松崎友右衛門
高 尾 村六百拾□□□
明治□年十月 ]
□□二戸
  依願免
百八十五戸
高尾 村
 同 
 同 
 同 
 同 
 同 
 同 
 同 
戸  長
副 戸 長
 同 
 同 
 同 
 同 
 同 
田島昌治
新井徳太
金子清兵衛
新井金ノ助
鈴木彦兵衛
今井幸七
天沼栄作
荒 井 村弐百八拾六石六斗九升九拾壱町壱反廿八歩百十壱戸荒 井 村
 同 
 同 
明治九年五月廿六日
依頼免
 同 
 同 
戸  長
副 戸 長
 同 
 同 
 同 
矢部長作
福島平右衛門
矢部祐蔵
新井幸四郎
新井庄三郎
別 所 村百五十壱石壱斗ロロ[    ]三十三戸別 所 村戸 長長谷川宰助
古 市 場 村百五十[    ][    ]十六戸古市場村副 戸 長大島 常吉
花 ノ 木 村七拾壱石四斗ロロ[    ]□□花ノ木村新井龍三郎
       

(『市史近代』№一八より引用)


この埼玉県の区制は小区的機能を認められており、表6のように小区分をもって行政処理を行っていた。しかし、当初(明治五年)この一八区には正副区長がおかれておらず、実際に戸長三名、副戸長八名で、どのように事務を分担していたか詳細(しょうさい)は不明である。この小区制は明治六年(一八七三)六月に一応廃止され、のち千葉県から移管された地域一区を含めた二五区制のみが残った。その結果、戸長に命じていた水利事務、学区取締、勧業(かんぎょう)掛の業務体制も廃止され、一般事務は正副戸長一同ですべて行い、戸籍・徴兵・学校・租税・水利・勧業・取締・出納(すいとう)・庶務等に分課し、一年交代で勤務することになった。
表6 第18区の小区分け
区 番所 属 村 々戸 長副戸長
第1小区桶川宿、中分村、井戸木村ほか16か村吉田祥之亟
矢部定右衛門
内田源三郎
第2小区上村、大針村、篠津村ほか16か村浜野由左衛門
高柳五郎
第3小区栢間(かやま)村、小林村、新堀村ほか5か村本木勘太夫
大熊所左衛門
第4小区高虫村、井沼村、荣山村ほか12か村折原長左衛門簇崎源左衛門
吉岡要蔵
江原善兵衛

(『騎西町史』より引用)


この間、埼玉県の区村吏職制はしだいに整備され、明治五年四月に名主・組頭の名祢を廃止し、民政全般が正副戸長の担当となっていった。戸長は区内の一切の事務を担当し、区高及び人口に応じて四~六人、副戸長は以前の名主と同様、村の民政全般を担当し、戸長を補佐するばかりではなく、その配下の保長・百姓代・伍長(町村内)をも監督するものとなった。これによって、前代の一人で全事務を担当した名主体制が完全に否定され、近代国家をめざした明治維新(いしん)に伴う事務量の増大に対応し得る、分課・交代担当制が確立したのである。

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