北本市史 通史編 近代
第1章 近代化の進行と北本
第1節 地方制度の変遷
2 埼玉県の誕生と区・戸長制の実施
埼玉県下の区制と戸長制写真4 明治24年に新築された埼玉県庁舎
(『目で見る埼玉百年』P16より)
同年十月には行政組織を強化するため、政府は町村に対して正副戸長制の実施を命じた。これを受けて埼玉県は同七年二月、この制度を実施し、各区に区長一名、副区長八名を從き、区の行政全体を管掌(かんしょう)させた。さらに、各村々には戸長を一名(大村の場合は数名)置き、一保(二五戸)に副戸長一名を置き、事務を担当させ、従来入札で選出されていた戸長及び正副区長は官選となった。この新たな区制では、表3にあるように市域の諸村は第一七区及び第一八区に属することになった。明治九年(一八七六)一月一日調べの正副戸長名簿(近代№一七)によると、第一七区の区長は福島耕助、副区長は横田三九郎他二名、第一八区の区長は倉田春平、副区長は矢部定右衛門他三名が任命された。
表3 埼玉県の区制と正副区長
区 | 会所位置 | 人 口 | 町村数 | 区 長 | 副 区 長 | 学務・医務取締 |
---|---|---|---|---|---|---|
第 一 区 | 草 加 | 一九、四〇二人 | 五三 | 諸木弥十郎 | 藤波小弥太、朝田隼太郎 | 大川弥惣右衛門 |
第 二 区 | 越ケ谷 | 一七、ハ一三人 | 二八 | 高橋荘右衛門 | 井出庸造、中村賢之助、野口八郎左衛門 | 細沼貞之助 |
第 三 区 | 彦 倉 | 一ハ、〇五一人 | 八一 | 戸張 七郎 | 麋波弥三郎、息 多田又三郎、斉藤育三郎 | 高 麗 新 八 |
第 四 区 | 松 伏 | 一三、四九七人 | 二七 | 鈴木 彰 | 小川五郎資、中村久左衛門、井上源兵衛 | 小 林 貞 斎 |
第 五 区 | 粕 壁 | 二〇、四一七人 | 五一 | 斉藤誠次右衛門 | 新井斉輔、神田八十吉 | 大垣六郎左衛門 |
第 六区 | 杉 戸 | 一六、四〇四人 | 三一 | 野 ロ 直 之 | 知久又四郎、渡辺徳太郎 | 坂斉一郎次 |
第 七 区 | 幸 手 | 一九、三一八人 | 三三 | 中 村 元 治 | 堀中謙三郎、巻島吉十郎、稲垣勘左衛門 | 間 中 進 之 |
第 八 区 | 栗 橋 | 一七、九八五人 | 三四 | 池 田 鴨 平 | 松島要一郎、島田耕平、秋庭豊五郎 | 足 立 柔 郎 |
第 九 区 | 久 喜 | 一六、〇一九人 | 二九 | 吉 田 元 輔 | 本謙次郎、斉藤幸右衛門、高橋荘之亟 | 関根平次郎 |
第 一〇 区 | 騎 西 | 一四、七五六人 | 二六 | 帰脚豎噸、若山喜兵衛、小山祖一郎 | 新 井 耕 作 | |
第 一一 区 | 加 須 | 一五、七三二人 | 二六 | 古沢佐右衛門 | 根岸七兵衛、古沢為三郎 | 川 島 喜 蔵 |
第 一二 区 | 不動岡 | 一八、六七九人 | 二九 | 川辺郷左衛門 | 吉沢利三郎、田村四郎左衛門、岡戸文右衛門 | 鎌 田 与 八 |
第 一三 区 | 羽 生 | 一七、八七五人 | 三一 | 越 庭 七 郎 | 斉藤新右衛門、斉藤僖右衛門、平野喜代三郎ー | 藤 井 操 軒 |
第 一四 区 | 行 田 | ニニ、五三二人 | 一七 | 加藤栄之助 | 梅沢帆五郎、市川波江 | 樋口利喜太郎 |
第 一五 区 | 池 上 | 一〇、〇三三人 | 一九 | 長谷川敬助 | 島田俊輔、小林兵右衛門 | 稲村貫一郎 |
第 一六 区 | 持 田 | 一二、七二六人 | 二〇 | 島崎新五右衛門 | 岡田金兵衛、保住源左、桜井彦三 | 山崎祥一郎 |
第 一七 区 | 鴻 巣 | ニニ、〇四八人 | 三九 | 福 岛 耕 助 | 常見喜右衛門、横田三九郎、横田重右衛門 | 長嶋又七郎 |
第 一八 区 | 桶 川 | 二八、八二九人 | 四四 | 倉 田 春 平 | 矢部定右衛門、府川得二、栗原七郎、森田賢一郎 | 戸井田彦兵衛 |
第 一九 区 | 上 尾 | 二四、〇四九人 | 五六 | 八木橋七兵衛 | 吉田富音、宮島耕三 | 内 村 網 三 |
第 二〇 区 | 岩 槻 | 一八、三四二人 | 四二 | 上 村 政 敏 | 河野孝義、斉藤保進 | 真々田幸栄 |
第 二一 区 | 大 宮 | 二三、七四一人 | 六七 | 井 原 揆 一 | 島村幸内、湯沢源右衛門 | 榎本佐佐衛門 |
第 二二 区 | 浦 和 | 一八、八八〇人 | 五〇 | 岡村正貞、石塚真平、天野三郎 | 辻 村 彦 八 | |
第 二三 区 | 蕨 | 二四、六九五人 | 三四 | 岡 田 正 徳 | 秋元康恕、飯島万右衛門、永井良輔 | 室 木 喜 平 |
第 二四 区 | 鳩ケ谷 | 一八、一四〇人 | 六〇 | 船津徳右衛門 | 板橋伊左衛門、中村七左衛門 | 大 竹 大 助 |
第 二五 区 | 椿 | 一二、四六五人 | 四二 | 関 ロ 桂 斎 | 石川得郎、田中喜右衛門 | 松 村 橘 郎 |
(『県史資料編19』附録P7~23より作成)
さらに、第一八区の石戸宿村(戸数一四七戸)、下石戸下村(同八〇戸)、第一七区の深井村(同六〇戸)、宮内村(同六〇戸)、高尾村(百八五戸)、荒井村(同一一一戸)、別所村(三三戸)の各村々からは戸長が選出されたが、比較的大村の中丸村(戸数百二三戸)からは選出されていない。このことから、村々には必ずしも戸長が置かれておらず、実質的な行政事務は副戸長が行っていたことが窺(うかが)われる。なお、事務所は、戸長や副戸長の自宅が当てられ、戸長役場と称された。
また埼玉県は、明治五年(一八七二)三月に二四区毎に会所を設置する布達(ふたつ)を出した。区制は先述したように戸籍事務を主とする戸籍区として置かれたが、この会所は寄場組合の系譜(けいふ)をひく御用組合会所の影Wで、取締組合の性格をもつものであった。同年四月、埼玉県は区毎に捕亡(ほぼう)方付属六人を置き、区内の高割をもって経費の支出を命じている。以前は、捕亡手先・捕丁・下捕亡などもいたがすべて廃止され、六月には捕亡方付属に一本化され、一等、二等付属というように格付けされた。このように、取締体制は他県より重層化されていった(『県史通史編五』P七八)。
埼玉県の場合、各区会所は寄場組合の伝統により、街道の交通の要衝地(ようしょうち)に置かれた。区制は、表3正副区長を中心に、表4の第一八区のように各町村におかれた正副戸長が合議して決める体制であった。
表4 第十八区正副戸長名簿 (明治九年一月一日調)
組 合 村 | 旧 高 | 反 別 | 数 | 居 村 | 職 名 | 姓 名 |
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石 宿 村 | 百七拾六石四升七合 | 六拾六町四反四畝廿ハ歩 | 百四十七 | 石戸宿村 同 村 同 村 同 村 | 戸 長 同 副 同 同 | 鈴木善右衛 鈴木源次郎 横田伊佐蔵 井野 広吉横田金五郎 高松四郎左衛門 |
下石戸下村 | 三百九拾八石壱斗八升九合 | 百二町八反五畝九歩 | 八十 | 下石戸下村 下石戸上村 | 戸 長 | 五味定右衛門 吉田徳太郎 |
本 宿 村 | 五拾八石五斗三升八合 | 廿二町六反五畝廿壱歩 | 四十一 | 本宿村 上日出谷村 | 副 戸 長 | 岡野七郎兵衛 原島長五郎 |
下石戸上村 | 三百七石八斗八合七勺三才 | 八拾六町壱反九畝九歩 | 八十 | 下石戸下村 本宿村 | 副 戸 長 | 中村浅五郎 岡野彦四郎 |
山 中 村 | 五拾二石壱斗六升五合 | 廿二町壱反五畝拾六歩 | 十六 | 中 丸 村 | 副 戸 長 | 加加 |
中 丸 村 | 四百八拾壱石三斗七升九合 | 百廿九町壱反四畝拾六歩 | 百廿三 百丗九 | 同 村 同 村 | 同 同 | 加藤清兵衛 加藤新右衛門 谷口平右衛門 加藤与左衛門 |
(『市史近代』№一七より引用)
表5 第拾七区正副戸長名簿
組 合 村 | 旧 高 | 反 別 | 戸 数 | 居 村 | 職 名 | 姓 名 |
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深 井 村 | 三百五拾石弐斗七升 | 八拾五町七反三セ壱歩 | 六拾戸 | 深 井 村 | 戸 長 | 清水述之助 |
宮 内 村 | 四百三石七斗三升 | 八拾六町四反弐セ歩 | 六拾戸 | 宮 内 村 | 戸 長 | 松村源兵衛 |
東 間 村 | 八拾七石弐升 | 四拾町八反九セ六歩 | 五拾壱戸 | 同 同 東 間 村 | 副 戸 長 同 同 同 | 大島周吾 松村末吉 松崎友右衛門 |
高 尾 村 | 六百拾□ | □□ 明治□年十月 ] | □□二戸 依願免 百八十五戸 | 高尾 村 同 同 同 同 同 同 同 | 戸 長 副 戸 長 同 同 同 同 同 | 田島昌治 新井徳太 金子清兵衛 新井金ノ助 鈴木彦兵衛 今井幸七 天沼栄作 |
荒 井 村 | 弐百八拾六石六斗九升 | 九拾壱町壱反廿八歩 | 百十壱戸 | 荒 井 村 同 同 明治九年五月廿六日 依頼免 同 同 | 戸 長 副 戸 長 同 同 同 | 矢部長作 福島平右衛門 矢部祐蔵 新井幸四郎 新井庄三郎 |
別 所 村 | 百五十壱石壱斗ロロ | [ ] | 三十三戸 | 別 所 村 | 戸 長 | 長谷川宰助 |
古 市 場 村 | 百五十[ ] | [ ] | 十六戸 | 古市場村 | 副 戸 長 | 大島 常吉 |
花 ノ 木 村 | 七拾壱石四斗ロロ | [ ] | □□ | 花ノ木村 | 同 | 新井龍三郎 |
(『市史近代』№一八より引用)
この埼玉県の区制は小区的機能を認められており、表6のように小区分をもって行政処理を行っていた。しかし、当初(明治五年)この一八区には正副区長がおかれておらず、実際に戸長三名、副戸長八名で、どのように事務を分担していたか詳細(しょうさい)は不明である。この小区制は明治六年(一八七三)六月に一応廃止され、のち千葉県から移管された地域一区を含めた二五区制のみが残った。その結果、戸長に命じていた水利事務、学区取締、勧業(かんぎょう)掛の業務体制も廃止され、一般事務は正副戸長一同ですべて行い、戸籍・徴兵・学校・租税・水利・勧業・取締・出納(すいとう)・庶務等に分課し、一年交代で勤務することになった。
表6 第18区の小区分け
区 番 | 所 属 村 々 | 戸 長 | 副戸長 |
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第1小区 | 桶川宿、中分村、井戸木村ほか16か村 | 吉田祥之亟 矢部定右衛門 | 内田源三郎 |
第2小区 | 上村、大針村、篠津村ほか16か村 | 浜野由左衛門 高柳五郎 | |
第3小区 | 栢間(かやま)村、小林村、新堀村ほか5か村 | 本木勘太夫 大熊所左衛門 | |
第4小区 | 高虫村、井沼村、荣山村ほか12か村 | 折原長左衛門 | 簇崎源左衛門 吉岡要蔵 江原善兵衛 |
(『騎西町史』より引用)
この間、埼玉県の区村吏職制はしだいに整備され、明治五年四月に名主・組頭の名祢を廃止し、民政全般が正副戸長の担当となっていった。戸長は区内の一切の事務を担当し、区高及び人口に応じて四~六人、副戸長は以前の名主と同様、村の民政全般を担当し、戸長を補佐するばかりではなく、その配下の保長・百姓代・伍長(町村内)をも監督するものとなった。これによって、前代の一人で全事務を担当した名主体制が完全に否定され、近代国家をめざした明治維新(いしん)に伴う事務量の増大に対応し得る、分課・交代担当制が確立したのである。