北本市史 通史編 近代
第1章 近代化の進行と北本
第1節 地方制度の変遷
2 埼玉県の誕生と区・戸長制の実施
上中丸村と下中丸村の合併明治政府は、明治四年(一八七一)の廃藩置県(はいはんちけん)以後、地方行政制度の統一を進めるなかで「行政の便」と「冗費(じょうひ)の節約」を目的とする町村合併を進めていった。「冗費の節約」とは、民費等の徴税負担、地租改正や諸調査などの国政委任事務費などの負担に耐えられない小村を、統合することによって諸費用の節約に結びつけることであった。
民費は、旧体制下の宿入用・村入用にあたり、村政や村運営のための経費であったが、廃藩置県後は県・区・町村財政の一部を構成する租税としての性格をもっていた。民費の語が初めて登場するのは同年二月の太政官(だじょうかん)布告(『県史通史編五』P八八)からで、第十七区の足立郡上谷村(現鴻巣市)の書上(表7)によれば、民費は、管内割(県政上の費目)、区割、町村割に分けられて賦課されていたことがわかる。また、書式も整備されていたが、これは同七年四月の全国民費調達の基準に基づくものである。
この民費は、明治六年七月の地租改正条例布告後は、それまでの石高割賦課から地価割賦課にあらためられ、地租の三分の一以下と定められた。しかし、現状は、地租改正に関わる調査費や、学制施行に伴う学校費等当面の諸改革に伴う諸経費が民費の中心をなしているばかりか、用・悪水路費や道路堤防橋梁修繕費も住民の負担となっていて、小村の負担は大きなものとなっていた。
このような状況の中で、北本市域の最初の合併として上中丸村と下中丸村の合併が同八年一月に実施された。明治七年十二月の県令白根多助による内務卿大久保利通(おおくぼとしみち)宛の合併改称伺(うかがい)(近代№一五)によると、「村費減省(そんぴげんしょう)」を目的とした合併であったことがわかる。この時の北中丸村の戸長は加藤平左衛門で、彼は、同村遍照寺に中丸学校を開き、子弟教育に尽力した人物であった。この合併によって、同八年一月二日に新たに「中丸村」が成立した。
表7 明治10年分上谷村民費表
費 目 | 金額 | ||||
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円 | 銭 | 厘 | 毛 | ||
管内割 | 営繕費 | ||||
取締入費 | 9 | 39 | 5 | ||
区割 | 布告并布達類入費 | 2 | 19 | 5 | |
諸御用ニ付各庁正副 | |||||
区戸長出頭旅費 | 23 | 11 | |||
区務所諸費 | 10 | 65 | 5 | ||
事務所費 | 28 | 84 | 9 | 9 | |
巡査屯所入費 | |||||
正副区戸長以下給料 | 109 | 73 | 5 | ||
戸籍調費 | 1 | 20 | |||
徴兵下調費 | 12 | 5 | |||
町村制 | 道路堤防橋梁修繕費 | 119 | 1 | 1 | 6 |
道路掃除費 | |||||
国弊社并府県社郷社営繕費 | |||||
祭典遙拝式費 | 1 | 25 | |||
神官給料 | 6 | 25 | 3 | ||
貢米金取集ヨリ納済迄諸赞 | 92 | 7 | |||
山林 | |||||
里程調費 | |||||
地租改正調費 | 174 | 84 | 7 | 4 | |
学校入费 | 309 | 24 | 2 | ||
用悪水路費 | 101 | 72 | 1 | 8 | |
暴漲水防費 | |||||
井堰守給料 | 2 | 25 | |||
消防入費 | |||||
耕作番人給料並諸費 |
(『鴻巣市史資料編5』P193より作成)