北本市史 通史編 近代

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第2章 地方体制の確立と地域社会

第1節 石戸村・中丸村の成立と村政の展開

3 日清戦争と日露戦争

日本の朝鮮政策と徴兵制強化
内閣弾劾上奏(だんがいじょうそう)案可決と同じ明治二十七年(一八九四)五月三十一日、朝鮮半島ではいわゆる甲午(こうご)農民戦争(東学党の乱)が激しさを増し、農民軍が金州を陥落させ、六月二日、日本政府はこれを口実に出兵を決定、同時に反政府的な議会を解散した。その後、天津(てんしん)条約(一八八五年締結)の相互通告による派兵の規定により、淸国も六月十二日までに出兵を行い、ここに日清両国の軍事衝突(しょうとつ)の危機が迫った。
そもそも日本の朝鮮半島進出の端緒(たんちょ)となったのは、明治六年西郷隆盛らを中心とする「征韓論(せいかんろん)」以後である。明治政府のうち出した廃藩置県などの中央集権化体制や秩禄(ちつろく)処分、徴兵制にみられる士族の特権廃止は、士族の不満を増大させた。同年八月岩倉具視(いわくらともみ)、大久保利通(おおくぼとしみち)、木戸孝允(きどたかよし)らが条約改正を目的として欧米に出かけた留守中の政府をまかされた西郷隆盛は、つのる士族の不満を外にむけるため、自ら遣韓(けんかん)大使となって「征韓」を行う口実を得ようと、自らの朝鮮派遣を一旦は決定する。これに対して帰国した大久保らは、同年十月二十四日、この決定をくつがえす。これを不服とした西郷隆盛(さいごうたかもり)、板垣退助(いあたがきたいすけ)、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)、副島種臣(そえじまたねおみ)、江藤新平(えとうしんぺい)の五参議が辞職し、明治政府はここに分裂、江藤や西郷らは士族反乱、板垣、後藤らは自由民権運動という、武力と言論の別々の反政府運動へと向かい、これによって明治政府は最初の政治的危機に直面することになった。
この征韓論は、幕末期の攘夷(じょうい)論の裏がえしとして生まれた朝鮮侵略思想で、すでに明治二年木戸孝允らによって説かれていたが、士族を中心とした人心の新政府への不満を外に向け、朝鮮を制圧することによって、欧米諸国から受けていた外交上の不利益からのがれようという外交的なねらいを主とし、他方大久保らの官僚政権体制に対抗して士族政権をめざそうというものであった。この論争以後、朝鮮問題は我が国にとって政治上、外交上の最大課題となっていったばかりか、軍事的増強の拠(よ)り所となった。事実、征韓論に反対した岩倉具視(いわくらともみ)や大久保利通(おおくぼとしみち)らも、日本の対外政策上、原則的に朝鮮侵略に反対であったわけではない。彼らとて、同七年四月、台湾に出兵し、さらに朝鮮への侵略の機会をもねらっていたのである。
その結果、翌明治八年(一八七五)五月、日本は軍艦の威嚇(いかく)によって朝鮮を「開国」させた江華島(こうかとう)事件を起こした。事件は、鎖国政策をとっていた朝鮮を、在日アメリカ公使館からおそわった手なみで挑発(ちょうはつ)して、日本人の治外法権を承認させ、朝鮮の関税自主権を認めない不平等条約である日朝修好条規(しゅうこうじょうき)を一方的に認めさせて終った。こうして、近代日本の朝鮮侵略の道はひらかれ、同時に対朝鮮政策を推進する過程で軍備も増強されていった。

写真54 徴兵令改正の徹底につき郡役所達

(矢部洋蔵家 28)

明治十六年十二月になると再度徴兵令が改正された。前年の十五年七月、朝鮮の宮廷内で日本の援助を得ていた開明(かいめい)派と旧守(きゅうしゅ)派の対立が生じ、開明派の日本式軍制導入という兵制改革に反対する軍人反乱(壬午(じんご)軍乱)が起こったが、この時の清国の介入に刺激された山縣有朋が、清国を仮想敵国とする軍備拡張策を主張したのが早速(さっそく)実施した対応策の一つであった。この計画は、同十七年から十年計画で実施されていくが、陸軍の各隊を近代化し、兵力を二倍にして対外戦争に備(そな)えるというものであった。徴兵令の改正は、こうした対外政策に対応して実施されたもので、その内容は、兵役年限の延長(現役三年は変らず、予備役四年、後備兵役五年はそれぞれ一年延長)、現役志願制(満十七歳以上)の導入、予備兵の召集・演習の強化、身体的条件不適格者以外の免役を認めず、徴集猶予(ゆうよ)制を採用した。これによって戸主六十歳以上の嗣子(しし)(後継ぎ)以外の免役と、代人料(徴兵免役料)の制度も廃止された。徴兵は、男子十七歳から四十歳までを兵籍に登録して国民軍とし、二十歳をもって徴兵検査を行い、さらに抽選(ちゅうせん)をもって一家に一人を現役に徴集するという制度であり、以前は合法的な徴兵忌避(きひ)(免役条項)の道もあったが、この改正でほとんど姿を消した。
この徴兵令改正は北足立・新座(にいざ)郡役所の各戸長役場宛(あて)に通達(近代No.二十七)された。これによると、「従前ノ徴兵令改正相成候(あいなりそうろう)ニ付テハ、人民種々ノ説ヲ唱(とな)ヒ未丁(みてい)年者ヲシテ戸主ニ相立候(あいたてそうろう)等頻(みだり)リニ徴兵ノ予備ヲナス者往々有之哉(おうおうこれあるや)ニ相聞候(あいきこえそうろう)」とあり、今回の改正のねらいが、徴兵忌避(きひ)を防止し、兵員の増強をはかることにあったことがわかる。事実、徴兵免除規定を利用して「徴兵養子」が行われたり、代人料二三五円(当初は二七〇円)を納めて徴兵を免(のが)れるケースが後をたたなかった。明治十六年(一八八三)七月の『巡察使諮問書(じゅんさつししもんしょ)』には「応徴者ノ中往々免役ノ方策ニ苦ミ、検査ノ前後ニ於テ逃亡(とうぼう)スルモ少ナカラス」と報告されている。その要因の一つに戸長が徴兵忌避に協力的であったこともあり、今回の改正は、戸長に対する政府の統制強化のねらいもあった。この通達に基づき、同年三月十六日、さっそく浦和の玉蔵院(ぎょくぞういん)において、市域を含む北足立・新座郡管内の徴兵検査が実施された(近代No.二十八)。しかし、この改正後の北足立郡の徴兵相当者逃亡失踪者(とうぼうしっそうしゃ)数(明治二十三年十二月)をみると、逃亡十、失踪一一七の計二一七人もあり、徴兵忌避はあとを絶たなかったことがわかる(『県史資料編十九』P四二三)。
さらに明治二十一年五月、部隊編成の上でも、従来の内乱防備的な鎮台制に変えて六鎮台(ちんだい)(東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本)をそのまま師団とする師団制を実施し、対外戦争に適したものに改変した。同六年に全国を六軍管区に分割していたが埼玉県は第一師団の管下に置かれた。北足立・新座(にいざ)群は、第一師団第二旅団本郷大隊区浦和監視区に属し、埼玉県全体としては、北西部を中心に第一旅団高崎大隊区と南東部を中心に第二旅団本郷大隊区とに二分されていた。また、徴兵事務は数郡市にまたがる大隊区ごとにおかれた徴兵区単位で行われ、大隊区司令官と各郡市長が徴兵官として徴兵事務に当たり、各郡市は徴募区とされ、徴兵検査は、この郡市単位に実施された。北足立郡は、浦和町の玉蔵院(ぎょくぞういん)で行われた(近代No.二十八)。表38は同十五年から二十九年までの徴兵者数を示している。これによると、徴兵の現役兵は倍増し、予備兵(補充徴員)は十七倍にものぼり、同十七~八年の朝鮮半島をめぐる対外関係の悪化に伴う陸軍の軍備拡張を如実(にょじつ)に反映したものとなっている。
表38 埼玉県徴兵推移表
壮丁総員徴集人員(陸軍)免 役猶 予
現 役補 充その他
明治156,9904551473185,946124
168,4735081557326,760302
178,3847946343866,366204
189,9826934,1973631,4553,220
1911,2664395,1447032,8252,154
209,9594432,1596894,7111,951
9,6484012,3286924,2511,976
219,2932,4134,8602,023
229,0374151,667145,6671,274
236,2634763,103114,378544
248,3574662,280115,020580
259,4314663,47194,739746
2610,0134911,883306,875734
2711,4845672,243277,824823
2811,6355591,550318,598897
2912,7799972,495408,295952

(『県史通史編5』P733より引用)

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