北本市史 通史編 近代
第2章 地方体制の確立と地域社会
第1節 石戸村・中丸村の成立と村政の展開
3 日清戦争と日露戦争
徴兵制強化と日清戰争自由民権運動が欽定(きんてい)憲法の大日本帝国憲法の制定と国会の開設をもって終焉(しゅうえん)すると、政局は旧民権派政党の民党と、政府との初期議会における対立に移った。この対立は、政府が第一議会から第六議会においてとった「超然主義」の立場により起こった。これは大日本帝国憲法発布直後に首相であった黒田淸隆がとった立場で、政府は政党の動向を顧慮(こりょ)することなく、超然として政府独自の政策を推進するというものであった。次に総理大臣となった山縣有朋もこの立場をとりつつ、その施政方針演説の中で、予算歳出の大部分を占めるものは陸海軍経費であることを強調し、それは「主権線のみに止まらずして、其の利益線を保って」一国の独立を確保するために必要であると、国家の「利益線」保護のための軍備拡張政策を強力に推進しようとした。議会はこれに強く反対し、政府と議会は激しい対立をくり返じた。民党、特に立憲自由党は恐慌(きょうこう)からの回復を求める地主・ブルジョアジー(産業資本家)の利益を代弁して、「政費節減」「民力休養」を唱え、議会ごとに政府の予算案を攻撃した。明治二十六年(一八九三)一月の第四議会では官吏の減給と建艦費削減を民党が決議すると、伊藤博文は「明治政府末路の一戦」と称して天皇の建艦費下賜、官吏の一割減俸の詔勅(しょうちょく)を出して対抗した。この時立憲自由党は一時政府に接近したが、残りの立憲改進党その他の政党はいわゆる「硬之派」と呼ばれる野党勢力を形成してその後も伊藤内閣を攻撃した。これに対して、伊藤内閣は第五議会を解散し総選挙を実施するが、結果は民党が優勢を占め形勢は変わらなかった。翌二十七年五月十五日第六議会が開会されると、民党は結束して不当解散を攻撃、五月三十一日には対清戦争のための外交政策をも非難し、行政整理・経費節減を求める内閣弾劾上奏(だんがいじょうそう)案を可決、政府を完全に苦境に追い込んだ。
内政の苦境からの脱却のためには、もはや政府の課題はすでに数年前から準備してきた朝鮮支配の実現、そのための清国との戦争の機会をいつつかむかにかかっていた。そして、その機会は、ついにつくり出された。