北本市史 通史編 近代
第2章 地方体制の確立と地域社会
第1節 石戸村・中丸村の成立と村政の展開
3 日清戦争と日露戦争
戦後経営と日露戰争への道日清戦争が下関条約の締結をもって終結した六日後の明治二十八年四月二十三日、ロシア、フランス、ドイツの三国は、日本側に遼東(りょうとう)半島返還の要求を勧告してきた。その中心はロシアであり、ロシアは自らの南下政策上の障害を除くため、フランスは露仏(ろふつ)同盟の立場から、ドイツはロシアの目をアジアに向けさせることと、中国分割競争の地位確保のためにこれに同調した。
日本政府は明治二十八年(一八九五)五月四日、遼東(りょうとう)半島の清国への返還を決定、この三国干渉を受け入れた。これを契機として、列国の帝国主義的中国分割競争はいよいよはげしくなり、ロシアは遼東半島南部を、イギリスは威海衛(いかいえい)とその周辺地域を、ドイツは膠州湾(こうしゅうわん)周辺地域をそれぞれ租借(そしゃく)し、中国の領土分割は、国際的関心を呼び起こしていく。一方、日本政府は、まき起こってきた国内世論の非難に対し、「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」「富国強兵」をスローガンに、国民の反ロシア感情とナショナリズムを高揚させ、新たな軍備拡張を進めていった。このような情勢のなかで、町村では日清戦争の戦勝建碑不許可の動きもあらわれた。
明治二十八年三月頃を境に「戦後経営」という言葉が、政界、軍部、財界、ジャーナリズムで盛んに使われ始め、これこそ日清戦争後の我国の進路を決定した最高の国策方針にほかならなかった。すなわち「戦後経営」とは、来たるべき対露戦に備えての日本社会の帝国主義的組み替え政策の総体をさし、主として軍備拡張、殖産興業、教育、植民地領有の四つの柱からなっていた。
「戦後経営」の中核は軍備拡張であった。山縣有朋(やまがたありとも)を中心とする軍部は、日本が「東洋の盟主」としての地位を確保するには攻撃的軍事力増強が必要であるとして、陸軍の師団倍増、砲台建設・兵器製造の軍拡案、海軍の鋼鉄艦隊主体の主戦艦隊及び巡洋艦・駆逐艦(くちくかん)・水雷艇中心の「補助隊」編成の軍拡案を第九議会に提出しようとした。一方、大蔵・農商務官僚は賠償金を基に軍拡と産業育成を主眼とする独自の「戦後経営」構想をねった。明治三十年十月一日の金本位制(きんほんいせい)の実施、同三十四年二月の八幡(やはた)製鉄所の開業をはじめ、勧業銀行・農エ銀行の設立、航海奨励法の制定などの経済力の培養をめざした。しかし、陸軍八か年計画の約九〇〇〇万円、海軍十か年計画の約二億一三〇〇万円という巨額調達は、時の藩閥(はんばつ)政府と民党とのかけ引きの好材料となり、また、藩閥官僚も政党との妥協が進められる。その結果、同三十一年の第十三議会において、第二次山縣有朋内閣が地租増徴(ちそぞうちょう)法を成立させ、ここに「戦後経営」は完成し、藩閥政府と政党の対立に終止符が打たれた。以後、「藩閥官僚の政党化」、「政党の官僚化」が進行し、同三十三年九月、立憲政友会が成立すると、日清戦後の政治的再編成もひとまず完了した。
国内で「戦後経営」が問題となっていたころ、清国では日本への賠償金を贖(あがな)うべく結んだ露仏借款(しゃっかん)(一八九五年)、英独借款(一八九六・九八年)の重圧下で、列強の帝国主義侵略の好餌(こうじ)となり、淸国は国土を奪われ、民衆は塗炭(とたん)の苦しみにあった。その結果、中国民衆は「文明」を呪い、「扶清滅洋(ふしんめつよう)」(清を扶(たす)け、西洋を減す)を説く白蓮(びゃくれん)教徒の義和(ぎわ)団の呼びかけに応じ、明治三十三年(一九〇〇)五月、義和団事件が起こった。ドイツの山東鉄道敷設(ふせつ)工事に対する山東省民の反抗から始まった反乱は、民衆生活を破壊する「文明の権化(ごんげ)たるキリスト教の教会堂」を焼打ちし、鉄道を襲撃、またたくまに四川(しせん)、雲南にも波及、同年六月北京各国公使館を包囲した。これに対して、日本をはじめとする列強八か国は約三万三〇〇〇人の連合軍を組織、うち日本は最大の二万二〇〇〇人を出兵させ、「極東の憲兵」たる実力を示し、列強に対して忠誠心を披瀝(ひれき)し、列強の一員としての発言権を得ようとした。その結果、義和団の反乱は鎮圧(ちんあつ)され、翌三十四年九月七日、「北清事変に関する最終議定書」(辛丑(しんちゅう)和約、いわゆる北京議定書(ぺきんぎていしょ))が調印され、再び清国は、日本を含む十一か国に四億五〇〇〇万両(テール)の賠償金(三十九か年賦)を支払うとともに、列強の北京駐屯(ちゅうとん)権を認め、植民地化が一層促進されることになった。また日本にとっては、列強の「極東の憲兵」たる地位の承認になったばかりか、中国侵略をはじめその後のアジア諸民族の抑圧という、不幸な歴史のはじまりとなったのである。
一方ロシアは、義和団鎮圧を名目に大軍を投入して満州を占領し、露清銀行を新設、その付属の東清鉄道も経営していた。さらに明治三十年国号を「大韓(だいかん)」と改めた朝鮮へも影響力を及ぼしはじめ、日本と鋭く対立していた。これに対して、日本政府は二つの対策をたてた。一つは、伊藤博文(いとうひろぶみ)や井上馨(いのうえかおる)らが唱えた日露協商論である。伊藤はロシアを訪れ、日本は韓国、ロシアは満州をおさえ、相互に介入しないという満韓交換論(まんかんこうかんろん)を説いたが、皇帝側近の反対にあって交渉は失敗した。もう一つは、山縣有朋(やまがたありとも)や桂太郎(かつらたろう)首相、小村寿太郎(こむらじゅうたろう)外相らが唱えた日英同盟論で、ロシアと妥協するよりも、イギリスと同盟を結んでロシアの南下を牽制(けんせい)する方が日本にとって利益になるという考えだった。
ロシアの南下と中国進出を恐れたイギリスはこれに応じ、明治三十五年(一九〇二)一月三十日、第一回日英同盟協約がロンドンで調印された。それは、イギリスの中国における、日本の中国・韓国における権益擁護のために相互援助を約したものであるが、極東での英露対立の結果成立したもので、日本が対露戦争への途をたどる第一歩となった。なぜならば、日本にとって対ロシア戦争は、英米が財政、外交両面から支持してくれて初めて可能な借金戦争となるからであった。
このような外交策が展開される一方、国内では同年秋以降、対露戦争主戦論が熱狂的となった。特に、ロシアが第二次撤兵(てっぺい)を実行せず、翌三十六年五月、鴨緑江(おうりょっこう)を越えて竜岩浦(りゅうがんぽ)に軍事基地を建設し始めると国内の主戦論は高揚した。同年六月十日、東京帝国大学教授戸水寛人(とみずひろと)ら七博士が桂首相を訪問、満州問題に関する意見書を提出、今の機会を失えば満州はおろか、朝鮮さえも失うだろうと開戦を主張した。これは世論の高揚を強く促し、世は開戦へと動かされた。さらに、八月九日には、貴族院議長近衛篤麿(このえあつまろ)を会長とする対露同志会が結成され、積極的な国民運動を展開した。
一方、キリスト教無教会主義者内村鑑三(うちむらかんぞう)や社会主義者幸徳秋水(こうとくしゅうすい)、堺利彦(さかいとしひこ)らは『万朝報(よろずちょうほう)』で非戦論を唱えたが、同年十月、同紙の経営者黒岩涙香(くろいわるいこう)が主戦論に転じると退社し、それぞれの立場で戦争に反対した。内村は、日清戦争に賛成したことを反省した上で、絶対平和主義のキリスト教人道主義の立場から反対し、幸徳や堺は、同年十一月に平民社をおこし、帝国主義に反対する社会主義の立場から戦争に反対した。この非戦論はいずれも戦争そのものを否定するもので、開戦後の与謝野晶子(よさのあきこ)(「君死たまふことなかれ」の詩を作製)や大塚楠緒子(おおつかなおこ)(「お百度詣で」の詩を作製)らの厭戦(えんせん)的な反戦論とは異なっていた。
義和団事件の時、戦地を慰問した奥村五百子(おくむらいおこ)は、「国家は兵力によって其安寧(あんねい)を保持せねばならぬ」『奥村五百子詳伝』)として、帰国後「軍人遺族の救護事業」をおこし、近衛篤麿(このえあつまろ)の庇護(ひご)のもと、軍部の協力も得て、同三十四年二月、愛国婦人会を設立した(第三章第四節参照)。
こうした情勢は、まさに「少数の論者を除くの外は内心戦争を好まずして、而(しか)して実際には戦争の日々近寄るものの如し」(『原敬日記』)というものであって、政府は世論の高揚を利用しながら、戦争にむけてその統一と国民的合意をはかっていった。