北本市史 通史編 近代

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第2章 地方体制の確立と地域社会

第1節 石戸村・中丸村の成立と村政の展開

3 日清戦争と日露戦争

日露戦争と村々
明治三十三年(一九〇〇)の北清事変後も十五万の軍隊を満州(中国東北地方)にとどめて、その独占的支配を企てていたロシアは、日英同盟調印から二か月後の同三十五年四月八日、満州撤兵に関する条約を清国との間に結び、同三十六年十月までに全満州から撤兵することを約束した。撤兵の代償には、清国政府が東清鉄道敷設権(ふせつけん)及び経営に関する契約を守り、ロシア人とその事業を守ると規定されていた。
明治三十五年十月八日、ロシアは東清鉄道の引渡しと第一次撤兵を実行した。しかし、その後にロシアでは、ベゾブラゾフ、アバザ、アレクシェフら満州占領論者が皇帝を動かし、鴨緑江(おうりょくこう)上流の森林伐採計画の利害もからみ、日本の攻撃に対する関門を鴨緑江に設けるべきとの意見により態度を一変させた。
明治三十六年四月八日、第二次撤兵の期日がきたにもかかわらず、ロシアは満州の軍事・経済上の中枢地域である盛京・吉林(きつりん)両省にとどまり、逆に奉天(ほうてん)・営口(えいこう)地区に軍隊を増強、さらに、営口・遼河(りょうが)水域の列強への不割讓などの七か条の要求を清国につきつけた。清国は、日英米の支援のなかでこれを拒否したが、ロシアは満州に軍隊を増強し続け、旅順要塞(りょじゅんようさい)を強化し、同年八月、アレクシェフが極東総督に就任すると、満州支配を永久化する意思を顕著(けんちょ)にあらわした。その結果、同年十月三日、ロシアは日本の対露交渉案に対する対案を提出、「韓国の独立並に領土保全を尊重」し、朝鮮を軍事目的で使用したり、朝鮮海峡の自由航行を迫害するような軍事基地をその沿岸に設けないこと、北緯三十九度以北を中立地帯として日露両軍隊を入れないことを相互に約して、「満州及び其沿岸は、全然日本の利益地域外なることを日本に於て承認」することを求めてきた。もはや日露両国には妥協の余地はなく、交渉は互いに開戦への時間かせぎにすぎなくなったのである。

図9 日露戦争戦闘経過図

(『県史通史編5』P799より引用)

明治三十七年(一九〇四)二月八日、日本は英・米の支持を受け、仁川(じんせん)・旅順のロシア艦隊に対する奇襲攻撃、十日の宣戦布告により、日露戦争は開始された(図9)。この戦争は、日本の背後に英・米が、ロシアの背後に仏・独がいるという、世界の強国を二分する様相を示し、世界戰争に発展する危機をはらむものであった。
日露戦争での動員令は、明治三十七年二月五日を最初として、翌三十八年八月十八日まで、計五十四回出された。この間、この動員令によって埼玉県下からは計二万二ニ五四名が召集され、同年八月末の出征兵士は五五六六名(『県史通史編五』P七九二)に及んだ。兵事行政では、前述したように埼玉県は第一師管区に属し、本郷・高崎の二連隊区に編成された。北足立郡は、南埼玉・北葛飾郡とともに本郷連隊区に属し、召集された兵は近衛師団と第一師団に配属され、一部は北海道を管区とする第七師団その他に配属された。
開戦後、政府は各県知事に国民の戦争への協力、産業経営などについての訓諭・指示を出した。埼玉県でもただちに郡長が召集され、国債への応募、軍需品供給、出征軍人家族救護、恤兵(じゅっぺい)など、県民が戦争協力体制をとるよう訓諭が行われた。さらに四月には、大木周一埼玉県知事が自ら各郡を巡回し、町村長、農会長、地方有力者を召集して、
「・・・我々ノ今日ニ処スル方法ハ第一ニハ唯(た)タ其勝利ヲ蔭ナガラ祈ルコトト、第二、戦争ノ為メニ生ズル国帑(こくど)ノ病弊(びょうへい)ヲ成ルベク補足シテ、以テ戦争ノ持続ヲ容易ナラシムル・・・第三ニハ・・・財源ヲ、成ルベク裕(ゆたか)ニスル方法ヲ講ズル・・・殊ニ全国財源ノ第一位ヲ占ムル所ノ農産ノ事デアリマス」

(『県史資料編十九』No.二六四)


と述べ、農業生産力の向上、戦争財源確保の増税、国債消化のために県民の地方費の負担軽減、軍人家族救護などを力説した。
この知事の訓示を受けた郡長は、さらに町村長、教育会、農会などに国民の覚悟や地方団体の経営、財源の涵養(かんよう)などを説き、郡民による戦争協力の戦時体制をつくりあげていった。
開戦後の戦況は、当初資質にすぐれた日本軍に有利に展開していくが、兵力動員は町村に重い負担を強いた。市域の北足立郡役所は、開戦以来「最モ憂慮シタルモノハ、農事改良上ノ」(『埼玉県北足立郡時局紀事本末』)中心となる主要な働き手の青壮年が大量に召集されたため、農業生産維持と郡民の生活をどう支えるかが大きな問題であったと記している。北足立郡全体では、第一回の召集から動員された人数は合計一〇一六名にのぼり、終戦までには、充員・臨時・補充を合せて一四二回の召集が行われ、合計三九七九人の在郷軍人が召集された。石戸村では一一六名が応召し五名が戦死、四名が戦病死した(「表忠碑」)。中丸村からは、加藤平作、加藤長吉、加藤耕助ら五十九名が出征し(近代No.二八四)、凱旋(がいせん)後加藤耕助は中丸村出征軍士総代となつている。
また、国や県の農産物増産計画を推進する上での障害は他にも生じていた。「之レニ次クモノ八馬匹ノ徴発購買ナリトス」とあるように、軍馬の徴発・購買は農作業に大きな打撃となった。県内では大量の軍事物資輸送のため近衛師団で十回、第一師団から九回の徴発が行われ、合計一万八一六頭、総価格七十六万五一九六円に及び、購買も五五八五頭、六十二万四一三一円にのぼり、一頭当りの徴発は七十円余、購買は一一一円余であった。さらに軍用車両として大八車、大六車などの手引き荷車の徴発も行われ、県内総数は七五二〇台、金額七万一三一八円あまり(『県史通史編』P七九八)であった。戦時動員体制による町村の負担は、兵員の召集という人的負担、馬匹・車両の徴発という物的負担にとどまらなかった。国債の購入、軍資金の寄付、軍用物資の供出という経済的負担も重くのしかかってきた。日露戦争の戦費予算は、合計十九億八四〇〇万円で、財源は歳出余剰七パーセント、増税収入十パー七ント、公債と国庫債券募金、一時借入金七十八パーセントと組まれた。実際の歳入は、公債と国庫債券募集金、一時借入金八十二.五パーセントで十四億一八〇〇万円、外国債は八億五十六万七〇〇〇円で五六.五パーセントが外債という、まさに借金財政であった。戦後、そのつけが増税となって国民の負担となった。軍需品としての米麦の購入も、米五万九〇六石、大麦三十八万一二八一石にも及び、とりわけ明治三十七年(一九〇四)八月に行われた大麦の購買は困難をきわめた。北足立郡では八月十二日、県から六万七九〇〇石の供出割当が示されたが、各町村とも「生産者中ニハ時価ノ変動ニ着目シ或ハ貯蔵セルモ供出ヲ惜ム者等ニ依り受書取纏(とりまとめ)方ニ困難遷延(せんえん)」する状態であった(前掲番)。結局北足立郡は予定額を達成することができなかった。このように戦争は膨(ぼう)大な軍事物資を必要とする消耗戦であったため、召集兵士のみならず銃後の国民にも大きな負担が課せられた。
市域から召集された兵士は、近衛・第一・第七師団に配帰属されたが、このうち近衛師団は第一軍に配属され、韓国大同江鎮南浦(ちんなんぽ)に上陸、鴨緑江(おうりょっこう)方面に進撃した。第聞二軍は第一・三・四・五・十一師団で構成され、遼東半島の大沙(たあしや)河口に上陸、五月二十六日、南山にロシア軍一個師団と会戦、苦戦のうえ占領したが、四四〇〇名の死傷者を出した。第三軍は、旅順攻略のため編成さ昨れたが、乃木希典(のぎまれすけ)を軍司令官とし、苦戦の末、二〇三高地を占領した。この間の死傷者は五万九〇〇〇名であり、いわゆる肉弾戦となった。また三月一~十日の奉天会戦には、日本軍は一師団を除き全兵カニ十四万、ロシア軍は三十二万を集中し、最大の激戦を展開、日本軍の死傷者は七万余名に達した。
この間の埼玉県出身者の戦死者合計は表40によると一二〇九名、病死者数は合計七四二名で、死者総数に対する戦病死者の割合は三十八パーセントにのぼった(但し、『県史通史編五』P八〇一では、戦死者一三四六名、病死者は七〇七名としている)。
表40 日露戦争埼玉県陸軍戦病死者数
戦期別

階級・兵役別
遼陽会戦・旅順第1回攻攀まで常盤丸
佐渡丸
和泉丸
の遭難
沙河会戦旅順陥落まで沙河対陣から休戦まで合  計
戦死病死戦死病死戦死病死戦死病死階級別
输卒現役17221554304
予備役14311115530
後備役51625121822
補充役1533711194171
兵卒現役58302042674603361161,398
予備役8228182293463298120
後備役5158011393417050
補充役93193189291195112
国民役11
下士現役83211395310185
予備役1425257127319
後備役8112252264
補充役
将校
准下士
現役371711727
予備役1315
後備役3131
そ の 他22628215122537
合  計237111246751752734561,2097421,951

(大浜徹世編『近代民衆の記録8 兵士』より引用)

奉天会戦後の戦況は日本に不利に傾き、兵力・弾薬・戦費欠乏になやんだが、ロシアも一月の血の日曜日事件を契機に第一次革命が始まり、明治三十八年(一九〇五)五月二十七日、ロシアのバルチック艦隊を壊滅(かいめつ)させた日本海海戦の勝利を契機として、米大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋により、同年九月五日、アメリカのポーツマスにおいて講和が成立し、戦争は終結した。このポーツマス条約で日本は、北緯五十度以南の樺太(からふと)と旅順・大連の租借権、長春以南の鉄道及び付属利権を得、朝鮮の単独支配権も獲得した。
しかし、戦勝宣伝に酔っていた日本の世論は、この条約の内容に反発し、日露講和反対運動が急速に盛り上り、条約調印の日の九月五日には、東京の日比谷で焼き打ち事件が起こり、戒厳令(かいげんれい)がしかれ、軍隊が出動した。これは、戦争による損害と生活苦に対する庶民の不満が爆発したもので、この反対運動は各地へひろがり、やがて藩閥政府への批判へと発展し、明治三十九年一月には、第一次桂太郎内閣は退陣を余儀なくされた。事実、日露戦争は、日清戦争と比較にならない損害があり、戦死傷者十一万八〇〇〇人、艦船九十一隻、軍費十五億二三二一万円に達した。戦死傷者で十一倍、軍費は七倍以上になる。
日露戦争と町村との関わりは、戦争協力体制以外には、従軍者家族への救護活動にもみられる。北足立郡における戦死者は表41によると戦病死者は三二七名を数えたが、死亡した軍人軍属の遣族に対しては、特別賜金が贈られた。郡役所は明治三十七年二月十七日、各町村宛に通達を出し、従軍者家族救護に関する指示を行った。その内容は、従軍者家族の救誕を近隣住民の共同体的扶助で行うというもので、従軍者家族救護組合をつくらせて、生計困難な家族には金品を寄贈して扶助すること、労働力不足の家族には「隣佑(りんゆう)其他助勢ヲナシ」として、労働力を提供し、子弟の教育も監護した。この組合が北足立郡内の各町村に設置された時期は、同年九月から十月まで、その名称は「出征軍人家族救護会」とするものが多かった。市域では、早くも同年二月二十日に石戸村出征軍人・家族保護会が結成され、のちに石戸村奨兵義会と改称された。ちなみに北足立郡下の救護団体が日露戦争中支出した生計救護費は九八二五円四十五銭二厘であり、慰問弔祭等の一時費用が九四四八円九十五銭二厘であった(前掲書)。
表41 将兵の動員・戦病死・徴発
日清戦争日露戦争
動員将兵戦病死者動員将兵戦病死者
将校下士卒将校下士卒
北足立郡625名143443693名7320327
入  問6380626238095391396
比  企3370232318363166169
秩  父3710171714910154154
児  玉1700191913240106106
大  里3961272827254264268
北埼玉5711202130535249254
南埼玉4821242526232222224
北葛飾3820202017003152155
3972
内海軍4
425525922254
内海軍8
2920242053
徴発馬匹(購入2198頭)10816頭(購入5585頭)
徴発車輛7520台
国債応募額2055100円 (募入額1327700円)23389475円 (募入額5932725円)
寄附金49120円225259円 (留守家族救援)
寄付金品16891円
学童献金10294円(9666人)

(『日本史学習のための新版・埼玉県歴史資料編』P150より引用)

このような大きな犠牲を払った日露戦争は、国内的には資本主義発展による海外市場獲得という要請によるもので、明治維新以来の征韓論(せいかんろん)を起点とする朝鮭半島支配も、その延長線上にあり、戦後の満州南部への利権拡大と支配権確立をみると、日露戦争は、まさに植民地利権獲得をめざした帝国主義戦争であったといえる。しかも、日本の資本主義発展はきわめて急速であり、封建的遺制を残存させながら発達した点で軍国主義的な発展となり、それは、その後に続く朝鮮併合、シベリア出兵、満州事変以後の日中十五年戦争の出発点としての歴史的意義があったとみることができる。

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