北本市史 通史編 近代

全般 >> 北本市史 >> 通史編 >> 近代

第2章 地方体制の確立と地域社会

第2節 農事改良と農業の振興

2 荒川の舟運業

高尾河岸

写真57 官許の旗

(田島和生家提供)

元禄三年(一六九〇)には、高尾河岸は、幕府の城米や領主の年貢米(ねんぐまい)の積み出しのための河岸になり、江戸への物資輸送の拠点となっていた。高尾河岸からは、城米・年貢米のほかに、農作物や酒などの商品が江戸へ送られた。
高尾河岸と荒川周辺とのつながりについて、年貢米の船積みを高尾河岸で行った村によってみると、高尾河岸と荒川周辺村々とのつながりがわかる。「東は、笠原村(現鴻巣市)、新堀村(現熊谷市)、三箇村(現葛蒲町)などがあり、西は横見郡久保田村(現吉見町)、丸貫村(現吉見町)、大串村(現吉見町)など確認されただけでも二十か村にも及んでいる。」(丹治健蔵『荒川の河岸場と道』p三十四)という状況であった。


写真58 高尾河岸場跡

『武蔵国郡村誌』の高尾村の項をみると、「風土記に此川の岸に船問屋三軒あり、近郷の貢米(こうまい)及ひ諸色の運送は河岸より出せりとす」とあり、荷物・商品の運送を扱う船問屋が、三軒あったことがわかる。また高尾河岸には、四十石積四艘(そう)と二十石積一艘の計五艘の荷船があり、そのほかに渡船二艘と水害予備船三艘があり、総計十艘の船があった。これらのことから、明治初期の高尾河岸の様子の一端を知ることができる。
高尾河岸のまわりは、町並みまでできるほどのにぎわいをみせていた。その様子は、図10の高尾河岸周辺復元図によって窺うことができる。河岸付近には、船荷揚場があり、そこには荷物を納める倉庫と船積みの人夫のいた長屋があった。また、船荷に関連する職人や商人の家も立ち並んでいた。河岸(舟)問屋が三軒あり、荷物を陸送する馬力が周辺に点在していた。問屋の二階には、雇っていた船頭が十数名いたとも言われている。

図10 高尾河岸周辺復元図(明治中期頃)

『市史民俗』P310より引用


写真59 高尾河岸の船問屋

高尾 田島和生家

なお、河岸周辺は船荷運搬に直接関係しない職人や商人の家も立ち並び、河岸を中心に一種の町としての様相を呈していた。「必要なものがなく困ったときには、塩でも何でも高尾へ行けば用が足りた」(民俗P三〇九)と言われる。

<< 前のページに戻る