北本市史 通史編 近代

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第2章 地方体制の確立と地域社会

第4節 地域の生活・文化の動向

2 日清・日露戦争従軍の郷土兵

両戦争への軍事動員
明治二十七年(一八九四)八月一日、清国に宣戦布告した日本は、ただちに兵士の応召と派兵のための軍隊編成に着手した。埼玉県出身の応召兵士は、近衛師団及び第一師団に所属された。在郷軍人の召集は四回に及び陸軍予備役一六四六人、同後備役一二六六人、海軍の予・後備役八人の合計二九二〇人に達し、この後翌二十八年七月まで召集が相次ぎ、動員令は前後三五回に及び、県の陸軍応集者総数は三九六八人、海軍は四人、合計三九七二人に達した。このうち北足立・新座両郡の応召者は陸軍六二四人、海軍一人の計六二五人(全体の一九・七パーセント)となっている。
市域の応召者の全体数はわからないが、大正四年(一九一五))四月に石戸村奨兵義会によって建てられた「表忠碑」によれば、日清戦争応召者は二一名だった。このうち一名が日清戦役で病死している。

写真78 日清戦役従軍者

本町

写真79 日露戦役病死者

本町

埼玉県の応召者は表39(第二章第一節)に示すように三九七二人であるとすれば、明治二十七年(一八九四)現在の全町村数でみると、一町村当たり約一〇人という平均になる。それから見ると石戸村は倍の応召といえる。二十一名の兵種は、軍医が一人、看護兵が一人、歩兵が一〇人、輜重(しちょう)兵が三人、騎兵が二人、砲兵が二人、工兵が二人という内容であった。

写真80 日清・日露両戦役従軍者

本町

写真81 日露戦役従軍者

本町

埼玉県は各町村に対し、士気を鼓舞(こぶ)すべく最大限の送別会を行うよう「県報」などを通じて宣伝した。市域に関する資料は無いが、例えば北埼玉郡の各町村では応召者に対し一同を招待して盛宴をはり、宣戦詔書を奉読し、あるいは勇壮な演説を行い、あるいはまた、慷慨悲憤(こうがいひふん)の辞をのべて士気を鼓舞(こぶ)した。同時に赤心報国・忠君愛国・天兵挫清・国威宣揚(せんよう)などの白旗を数流(すうさお)ひるがえし、親戚・隣組はじめ、町村吏員、町村会議員、有志者、学校職員、児童生徒らはその町村の境、または最寄の停車場まで送り、郡役所でも応召集者の便宜をはかり、乗車切符の手配などを行ったという。県は九月八日、各郡長に内訓を発し、応召者の救護法を定め、出征者をして後顧の憂いのないよう配慮させるとともに、国民の元気を作興し、報国の義務を励ますように指示している。これを受け各町村では救護法を設け寄付を募り、それを従軍家族扶助慰問金として配布した。また恤兵(じゅっぺい)義会ないし恤兵会を設け、留守家族の扶助に積極的にかかわった。ところが、これらの扶助は出征兵士の数からいえば極端に少なく、一家の働き手を兵士として召集された家族にとっては町村あげての援助があったとはいえ、やはり大きな犠牲を強いられたのである。

写真82 義金拠出に対する感謝状

(加藤一男家 211)

写真83 委嘱状

(加藤一男家 212)

兵士の応召とともに、銃後の国民にも応戦協力体制が組まれた。日清戦争については前述したが、日露開戦となると、政府は各県知事に国民の戦争への協力、産業経営などについて訓諭・指示を行った。埼玉県ではただちに郡長を招集し県民に対して政府からの訓諭・指示
の趣旨を徹底させ、国債応募、軍需品供給、出征軍人家族救護、恤兵(じゅっぺい)などの戦力協力を行うよう訓諭した。知事の指導訓示を受けた郡長は町村長、教育会、農会などに、戦争の動向や軍国の求める国民の覚悟、地方団体の経営、財源の涵養(かんよう)などを説いた。戦時講話では農会と教育会が大きな役割を担った。記念事業として行われたものは青年団、矯風会(きょうふうかい)、学校園、産業組合、町村及び学校基本財産、学校建設、道路開削、植林などの組織設立と施設充実であった。
日露戦争時の軍事動員は、明治三十七年(一九〇四)二月から同三十八年の八月まで、全部で五四回の動員令が出された。これに加えて前後一一八回の臨時召集や補充召集などがあり、両方あわせて埼玉県では陸軍二万二二四六人、海軍八人、合計二万二二五四人の兵員が召集された。これらの将兵は主として近衛師団と第一師団に編入され、第一・三軍に所属して満州遼東(りょうとう)半島の各地に転戦した。北足立郡では二六九一名が応召し、市域では中丸村で五九名(北足立郡中丸村恤兵会の「明治三十七八年戦役従軍兵士」による)、石戸村で一一六名(石戸村奨兵義会の「表忠碑」による)が応召した。石戸村ではこのうち五名が戦死し、四名が病死した。
国民の戦争への協力でもっとも力を入れられたのは、膨大な戦費に対する軍事資金調達のための協力であった。戦費は合計一七億円にも及び、これらのほとんどは国民の肩にかかってきた。国庫債券は県郡町村に割りあてられ、また義勇艦隊建設義金の醵出募集や軍資献納が県・郡役所・町村の督励によって推進勧誘された(写真82・83)。さらに出征軍人家族の慰問や援護も郡長の肝入(きもい)りで町村ごとに行われた。

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