北本市史 通史編 近代
第2章 地方体制の確立と地域社会
第1節 石戸村・中丸村の成立と村政の展開
2 自由民権運動と北本
北足立郡の成立と郡会の開会市制町村制が公布後一年で施行されたのに対し、府県制郡制は全国的にその実施が遅延(ちえん)した。府県制は郡制・市制を施行した府県にその実施が限られたこと。郡制は町村制を施行した府県にのみ施行するものであったためである。特に郡制は全国的に小郡が多く、郡の分合(ぶんごう)によって適正な郡が造成されるまでは施行されず、埼玉県も明治二十九年八月一日に県制・郡制を施行するまで五年間を要し、全国十五番目の実施県であった。
具体的には、埼玉県は郡制公布後、郡制施行事務取調委員を設置し、政府の方針に基づいて明治十一年(一八七八)の郡区町村編制法による郡区域の見直しを行った。それによれば、十八郡のうち七郡は人口が多く資力も充実して独立自治に充分であると判断されたが、十一郡は人口が少ない上に資力も乏しかったので、隣郡を合併して新郡を置くという合併計画を立てて内務大臣に上申したのである。その結果、秩父・北埼玉・南埼玉郡はそのまま独立したが、新座(にいざ)郡が北足立郡へ、高麗(こま)郡が入間郡へ、横見(よこみ)郡が比企郡へそれぞれ合併したほか、児玉(こだま)・賀美(かみ)・那珂(なか)郡の三郡は廃止され、新たに児玉郡が設置され、大里・幡羅(はたら)・榛沢(はんざわ)・男衾(おぶすま)郡の四郡を廃し、新たに大里郡が置かれたのである。
これに対して、郡区変更への反対の建議も多少起こった。特に県北の榛沢郡は他の三郡の隣接村を含めて独立を計画し署名運動を進めたが、反対者もあり実現しなかった。他に北葛飾(きたかつしか)郡、北埼玉郡、比企郡からも郡区域変更の建議が提出されてきたが、県は予定通り郡分合(ぶんごう)案を政府に上申し、決定を待った。しかし第一回帝国議会の衆議院で否決され、その後も第二回議会が解散で審議未了となるなどしてその実施が遅れることになった。結局第九回議会で承認され、「埼玉県下国界変更及郡廃置法律」が公布されたのは明治二十九年三月二十九日のことであった。
市域を含む北足立郡は、表36にあるように、従来郡役所を共にしてきた小郡の新座郡を合併したが、県下最大の人口となり、資力も豊かで、以後、埼玉県の中心部としての発展を遂げていくことになる。なお、郡役所は引き続き浦和町に置かれた。図8は、北足立郡の郡域である。
表36 埼玉県新郡設定表
新郡名 | 旧郡名 | 町村数 | 人 口 | 戸 数 | 国 税 | 地方税 | 町村税 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
人 | 戸 | 円 | 円 | 円 | |||
北足立 (浦和町) | 北足立 | 67 | 189,836 | 27,617 | 354,947 | 79,227 | 64,220 |
新 座 | 8 | 22,169 | 3,207 | 31,365 | 9,294 | 7,638 | |
小 計 | 75 | 212,005 | 30,824 | 386,312 | 88,521 | 71,858 | |
入 間 (川越町) | 入 間 | 48 | 149,663 | 24,051 | 208,478 | 57,082 | 44,728 |
高 麗 | 15 | 46,456 | 7,604 | 66,419 | 13,539 | 13,607 | |
比企郡 植木村 | 1 | 1,256 | 194 | 不明 | 401 | 不明 | |
小 計 | 64 | 197,375 | 31,843 | 274,897 | 71,022 | 58,335 | |
比 企 (松山町) | 横 見 | 4 | 13,641 | 2,099 | 21,469 | 4,767 | 5,493 |
比 企 | 24 | 72,087 | 11,871 | (130,691) | 30,783 | (27,705) | |
小 計 | 28 | 85,728 | 13,970 | 152,160 | 35,550 | 33,199 | |
秩 父 (大宮町) | 秩 父 | 34 | 77,883 | 13,249 | 65,983 | 16,433 | 34,175 |
児 玉 (本庄町) | 児 玉 | 14 | 40,335 | 6,583 | 62,563 | 16,425 | 15,891 |
賀 美 | 5 | 13,725 | 2,153 | 23,070 | 5,352 | 5,634 | |
那 珂 | 3 | 7,722 | 1,261 | 10,301 | 2,386 | 2,418 | |
小 計 | 22 | 61,782 | 9,997 | 95,934 | 24,163 | 23,942 | |
大 里 (熊谷町) | 大 里 | 11 | 35,968 | 5,672 | 67,266 | 17,319 | 17,805 |
幡 羅 | 12 | 35,822 | 5,278 | 75,543 | 16,333 | 15,477 | |
榛 沢 | 14 | 47,299 | 7,257 | 73,752 | 17,157 | 15,863 | |
男 衾 | 5 | 12,920 | 2,100 | 15,169 | 4,073 | 3,243 | |
小 計 | 42 | 132,009 | 20,307 | 231,729 | 54,882 | 52,387 | |
北埼玉 (忍町) | 北埼玉 | 56 | 148,986 | 22,891 | 310,120 | 57,205 | 58,458 |
南埼玉 (岩槻町) | 南埼玉 | 42 | 135,991 | 20,388 | 265,430 | 52,244 | 50,767 |
北葛飾 (杉戸町) | 北葛飾 | 24 | 79,210 | 11,851 | 173,967 | 38,276 | 25,503 |
中葛飾 | 7 | 16,200 | 2,410 | 26,306 | 7,053 | 4,850 | |
小 計 | 31 | 95,410 | 14,261 | 200,273 | 45,329 | 30,353 | |
合 計 | 394 | 1,147,169 | 177,736 | 1,982,839 | (445,349) | 408,474 |
国税、町村税の比企郡の数値は、新入間郡に編入の植木村分を含む。円末満四捨五入
(『県史通史編5』P581より作成)
図8 埼玉県北足立郡全図
(『北足立郡事一班』付図より引用)
また、郡制施行によって郡会及び郡参事会が置かれた。郡会は、郡内各町村で選挙された議員(原則各町村一名)と地価総額一万円以上の大地主の互選によって選ばれた議員によって構成され、後者は定数の三分の一を限度とした。北足立郡の郡会議員定数は二十五名であった。合併後の北足立郡は七十五町村で構成されていたので、ほぼ三町村に一人の割合で選出された計算になる。なお郡会議員は名誉職で、任期は六年、三年ごとに半数を改選、大地主議員は任期三年で全員改選した。市域からは明治三十二年(一八九九)に石戸村の新井啓之助が初めて選出された。
郡会は郡長を議長とし、その権限は、郡の歳入歳出予算の決定、決算報告の承認、郡有財産の管理・維持・処分の五項目に限られ、特に財政的には課税権がなかったため、独自財源が組めず、自(おの)ずとその領域は限定されていた。代わって、併設された郡参事会に大幅な権限(けんげん)が与えられていた。
郡参事会は、郡長と郡会議員の互選によって選ばれた三名の参事会員と県知事の任命した一名の計四名の参事会員で構成され、いずれも名誉職であった。その職務は、町村会の代議決権、町村吏員の懲戒(ちょうかい)裁判権、町村境界変更の際の議決権など七項目の町村事務に関する監督行政権が与えられた。
なお、市域の明治二十九年(一八九六)から同三十一年までの郡会議員及び郡参事会員は表37のとおりである。
表37 北本市域選出郡会議員及び郡参事会員
(一)郡会議員
選挙年月日 | 氏 名 | 出身町村 | 選 挙 区 |
---|---|---|---|
明治二十九年 九月一日 | 斎藤竹次郎 | 馬 室 村 | 川田谷村、石戸村、馬室村 |
同 | 長島 為一郎 | 鸿 巣 町 | 中丸村、鴻巣町、常光村 |
明治三十二年 九月三十日 | 新井啓之助 | 石 戸 村 | 川田谷村、石戸村 |
同 | 藤井 襄 | 馬 室 村 | 馬室村、中丸村、常光村 |
明治三十三年 九月十日 | 加藤隆次郎 | 中 丸 村 | 常光村、中丸村、馬室村 |
明治三十四年 十-月六日 | 樋ロ 三平 | 常 光 村 | 馬室村、常光村、中丸村 |
明治三十六年 六月三十日 | 加藤隆次郎 | 中 丸 村 | 馬室村、中丸村、常光村 |
同 | 磯田治右衛門 | 川田谷村 | 川田谷村、石戸村 |
明治三十八年 -月二十二日 | 藤井 襄 | 馬 室 村 | 馬室村、中丸村、常光村 |
同 十二月三日 | 加藤隆次郎 | 中 丸 村 | 馬室村、中丸村、常光村 |
同 十二月十七日 | 天沼忠一郎 | 川田谷村 | 川田谷村、石戸村 |
明治四十年 九月三十日 | 今井 虎七 | 石 戸 村 | 石戸村、川田谷村 |
同 | 河野茂三郎 | 常 光 村 | 馬室村、中丸村 |
明治四十二年 十一月 日 | 藤井 襄 | 馬 室 村 | 馬室村、中丸村、常光村 |
明治四十四年 九月三十日 | 永沢 代助 | 川田谷村 | 石戸村、川田谷村 |
同 | 加藤隆次郎 | 中 丸 村 | 馬室村、中丸村、常光村 |
大正二年 十二月二十日 | 松村政五郎 | 常 光 村 | 馬室村、中丸村、常光村 |
大正四年 九月三十日 | 市川卯三郎 | 川田谷村 | 川田谷村、石戸村 |
同 | 藤井 襄 | 馬 室 村 | 馬室村、中丸村、常光村 |
大正六年 十月二十三日 | 河野 和士 | 常 光 村 | 馬室村、中丸村、常光村 |
大正八年 九月三十日 | 田島 長蔵 | 石 戸 村 | 石戸村、馬室村 |
同 | 山本丑太郎 | 中 丸 村 | 中丸村、常光村 |
就職年月日 | 氏 名 | 就職事由 | 退職年月日 |
---|---|---|---|
明治三十二年二月二十日 | 斎藤竹次郎 | 補 欠 | 明治三十二年七月一日 |
明治三十二年十月二十八日 | 新井啓之助 | 選 挙 | 明治三十四年四月二十八日 |
明治三十六年十月三十日 | 磯田治右衛門 | 同 | 明治三十八年九月二十八日事故 |
(『北足立郡誌』P七〇~七四より作成)
やがて郡制は、明治三十二年に全文改正され、郡会議員の大地主議員と郡参事会員の複選制(間接選挙制)が廃止され、議員は直接選挙によって選出されることになった。選挙権は、郡内で一年以上直接国税を年額三円以上納めた者に、被選挙権は同五円以上納めた者に与えられることになった。議員の任期も四年に短縮され、郡参事会員も定数を五名とし、郡長と郡会議員の互選で構成することに変更され、「郡ニ係ル訴願訴訟(そがんそしょう)及和解(わかい)ニ関スル事項」の議決が新たに加えられた。北足立郡会の定数も五名増えて三十名となった。