北本市史 通史編 近代

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第3章 第一次大戦後の新展開

第1節 地方自治制の再編成

3 第一次大戦後の村財政

農民の税負担軽減の要求
こうした税負担は農民納税者にとってかなり重い負担であった。そこで大正十一、二年ごろから農民の間に税負担軽減要求が捲(ま)き起った。それも県下の農民代表者会議ともいうべき県農会長会議においてである。すなわち、同十二年(一九二三)一月、埼玉県農会長会議が県会議場で開かれ、農家負担の軽減問題が討議された。その際、「近時農民の負担は激増せるも、米麦の価格は其生産費をも償(つぐな)ふに足らず、為に農家経済は全く不振の極に達し、思想は愈(いよ)々混乱の度を加へ、農村之に因て困窮(こんきゅう)の悲境(ひきょう)に到達し、国民生活の前途寔(まこと)に憂慮に禁(た)へず」(『東京日日新聞』大正十二年一月二十五日、埼玉版)と苦しい実情をアピールするとともに、①農民負担の軽減を期すること、②米麦価格の維持に対し適切な方法を講ずること、③小作制度に関する法的整備を図ること、④衆議院議員選挙法の別表改正を要望すること、⑤農民の政治的自覚を促(うなが)し、将来、一層農業に理解ある議員の選出に努めること、などを決議した。
この決議に基づいて貴衆(きしゅう)両院に請願書を提出することになった。その請願書には農村の窮状(きゅうじょう)を次のように訴えている。
    農村負担軽減の儀に付請願
謹(つつしみ)て衆議院議長奥繁三郎閣下に請願仕候
惟(おも)ふに農業は一国産業の根幹にして、国民生活の源泉なり。之れが消長は国家興亡の分るゝ処なりとす。然るに農民の負担は過重となり、主要農産物価格は低落し、其の生産費だに償(つぐな)ふを得す。加ふるに幾多生産資料の昻騰(こうとう)は農村中堅たる中農の、最も困憊(こんぱい)する処なるにも拘(かかわ)らず、社会の進運に伴(ともな)ひ、農村の経済も亦膨張(ぼうちょう)し来たり、遂に収支の均衡(きんこう)を失し、益々以て生活の脅威(きょうい)を蒙(こうむ)り、食糧の生産は減少せんとし、美田沃野(びでんよくや)は到る所荒廃(こうはい)の凶相(きょそう)を現出し、農村男女は商工の巷(ちまた)に趨(はし)り、労力不足の結果、益々耕作の困難を来し、思想は日々に悪化して小作争議は停止する処を知らず(中略)、先づ農民負担の軽減並に米麦価格の安定を図り、農村の福利を増進するは焦眉(しょうび)の良策と信ず、(『東京日日新聞』大正十二年一月二十五日、埼玉版)

ここには資本主義経済のもとで押しつぶされそうな農村の窮状が率直(そっちょく)に語られているが、大震災に見舞われた大正十二年は、米価に加えて麦価や蔬菜(そさい)が下落し、農村は「悲境のドン底」(前同、大正十二年十一月十四日、埼玉版)といわれた。翌十三年七月には、全県的な組織である埼玉県農事協会も「農家の負担軽減は農村振興上焦眉(しょうび)の急務」である(同、大正十三年七月六日、埼玉版)と建議している。これらのことから、当時農民にとって税負担軽減がいかに重大かつ深刻な問題であったかを窮(うかが)い知ることができる。景気は大正十四年にやや好転の兆(きざ)しを示したものの、その翌年には再び景気は後退し、やがて昭和恐慌(きょうこう)の波にのみこまれていった。
しかし、模範村の実績をもつ石戸村は「所謂(いわゆる)経済困難遭遇(そうぐう)」した際にも、「緊縮(きんしゅく)は伸びる日本の旗章(はたじるし)とし、村民力を合せ、無駄を排し、消費を節約し、勤倹カ行し、一面生活改善申合(もうしあわせ)を新にし、他方生産方面の改善を図り、以て難局打開に精進(しょうじん)した」結果、「本村民は国税、県税、村税共一人の滞納者なく完納」(伊藤重治家 三)したという。

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