北本市史 通史編 近代
第3章 第一次大戦後の新展開
第2節 地域産業の発展と動揺
3 石戸トマト
トマト栽培方法もともとトマトは、南米熱帯地方の原産といわれており、日本原生の植物ではない。時期ははっきりしないが、ポルトガル人によってマラヤ、ジャワ、中国を経て、日本へ伝えられたと言われている。元来、トマトは食用ではなく、鑑賞用が主であったらしい。日本において食用として栽培するようになったのは、明治中期以後であると言われる。これが食用として積極的に栽培されるようになったのは、二十世紀に入ってからである。
ところで、北本では大正末期に栽培が始められている。当時の人々は、トマトのことを赤茄子(あかなす)と呼んで、さつまいもと同じように、台地上で作るものと考えていたらしい。栽培当初は五センチほどの小さな実しかできず、地元の人は、青臭くて食べる人はいなかったという。
写真104 トマト栽培
昭和2年ころ(石戸小学校提供)
トマト栽培要項を見てみると、栽培品種は、ポンテローザ、リビングス卜ーン・グローブ、ミカド、クリムソン・カッション、キングストン、ドワーフ・ストーンであり、種子は品種の統制をはかるために、組合より配給されたものを使用した。その後、トマト工場ができてからは、トマトの品種は、ポンテローザに統一された。このポンテローザは、蔓(つる)性の晩生種で、葉は中形で欠刻があり、果は暗赤色で大きく、扁円(へんえん)、不整形な形であった。一個八〇匁ないし一〇〇匁位を普通とし、大きいものは二〇〇匁に達した。
栽培する畑に関しては、厳しい条件が付されている。すなわちトマトは、連作を嫌うので一度栽培した畑は少なくとも四年を経なければならなかった。土質は、あまり選ばないが、適度の湿気のある土壌又は砂質土壌がよいとされ、石戸村の土壌はこれに適するものであった。
肥料に関しては、窒素質肥料の過用は、茎葉繁茂になりすぎるため、落果が多いとされた。適度の肥料使用の一例をあげると、反当たり元肥として堆肥三〇〇貫、人糞尿一五〇貫、藁灰一五貫、強過燐酸石灰五貫を使った時とされている。また、追肥は植え付けから二〇日位後に一回、その後さらに二〇日位後にもう一回行うものとし、それぞれ、人糞尿一五〇貫を倍量に薄めて施した。あわせて土寄せを行い、その土寄せは深ければ深いほど成績がよいとされた。
植え付けは、草丈六、七寸が良く、本葉六枚位のものが定植に適するとされた。トマトは、各葉のわきから盛んに枝を出し、放任すれば枝葉が繁茂してしまい、落果することが多く、果実がつかなくなる。そのため幹と初花直下の枝との二本だけ残し、そのほかはすべて摘みとる。これを二本仕立てという。この二本仕立ての場合、畦幅は三尺で、株間二尺として、一畝歩について一八〇本の苗を必要とした。また、主幹だけを伸長させ、その他の側枝は出来次第すべてを摘みとる。これを一本仕立てといい、この場合は、株間一尺とし、一畝歩三六〇本の苗を要した。また、強雨中または強雨直後などのように、土がべとついている時に植えるのは悪いとされていた。植え込みは深いほど良く、本葉一枚目の下まで土がかかるのが良いとされた。
トマトは、蔓(つる)性種には必ず支柱を使って、支柱に蔓を縛ってやる必要があった。また、矮性種でも用いた方がよいとされていた。支柱整枝後の幹の一本一本に立てるので、一畝歩当たり三六〇本が必要とされた。
また、トマトはすぐに芽が出るので、主な蔓以外のものは、すべて芽搔きをする。放置すれば、太陽の光の透射や通風を妨げることとなり、未熟のまま落果したり、病害が発生し易くなった。
収穫に関しては、トマトクリーム製造用にしても、種子採取用にしても、ヘタのきわまで色づいた時にすぐ収穫するのが良いとされている。この時期をのがすと実がいたんだり、自然に落果するので、過熟は良くないと指導された。そして収穫したら、なるべく早く組合に搬入することを勧めていた。
以上が、当時の石戸トマトクリーム販売組合によって配布されたトマトの栽培要項の中にある栽培方法である。より良い製品の統一化のために、じつに細かいところまで指示がされている。生産経験の乏しいトマトという果菜類を栽培する農家の不安を解消するために、綿密な計画によって指導しようとした心意気をうかがい知ることができる。しかしより良いトマトを作るためには、品質向上が絶対に必要であり、トマト栽培農家への細かい指導を怠らなかったことが知られる。
組合は栽培方法の指導のほかに、組合員のトマト栽培の改良向上をはかるために競作会を行っている。審査は、栽培面積一〇〇点、管理一〇〇点、生育状況一〇〇点、反当たり収量三〇〇点、果の品質二〇〇点の八〇〇点満点で行った。栽培面積は一反歩以上を満点とし、一反歩未満は一畝につき一〇点とされた。管理の一〇〇点の内訳は、植え付け一〇点、中耕除草は三〇点、芽搔(めか)き三〇点、支柱立て三〇点であった。生育状況は、数回審査するものとされた。反当たり収量は、組合に搬入された収量によって算出して最高収量を満点とし、五貫減ずるごとに一点減ずるものとした。また、果の品質は、搬入品及び圃場の生果で審査するものとした。
この競作会は、審査の項目を見ればわかるように、トマトの栽培面積を増やし、反当たりの収量をあげて生産性を高め、しかもより良い品質を保つことが目的とされた。組合に属するトマト栽培農家の競争意識を刺激することにより、何よりも生産性の高い、集約度の高いトマト裁培を達成することを目指したのである。このほかにも組合の技術員は、畑々によって肥料の配合指針を示したり、あるいは実地指導をしたり、病虫害の予防など絶えず栽培指導を行い、さらに競作会を実施し生産競争をさせたので、生産量は飛躍的に増加した。こうして「石戸トマト」の基盤が形成された。