北本市史 通史編 近代

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第3章 第一次大戦後の新展開

第2節 地域産業の発展と動揺

4 北本の商工業

地場産業の様子
北本市域はもともと農村地帯であり、地場産業も生活に関連するものが多く、工芸技術的・産業的なものが少なかった。そうした状況下で工芸技術的・産業的な地場産業として挙げられるものに、桐タンスがある。しかし、基本的には農閑期の副業であり、それ以上の進展を見ることはなかった。
『市史民俗』P一〇〇によると、高尾タンスは高尾河岸を利用して東京に売り出され、「束京タンスの元祖」とまで評されていた。明治から大正にかけては、丸山から北袋にかけてほとんどの農家がタンスを作っていた。高尾地区には四〇軒以上の「ハコヤ」(箱屋と呼ばれた職人)がいたという。
明治四十三年十一月、石戸村立尋常高等小学校において、教育品展覧会が開催されることになった。開催にあたって同村青年団は、前橋共進会への同村からの出展品を調査したところ、石戸村指物職より出品されたタンス等が極めて旧式であり、製作・加工ともに振わず、したがってどの出品も表彰されず、そのうえ売品もわずかという有り様であった。そこで教育品展覧会を機に指物職一同の協議会を行い、指物一般の大改良をはかる方針が発表された(近代№一四九)。
明治四十四年(一九一一)四月二十一日付の『埼玉新報』によると、その後、製作者(指物職)もその面目を改め、北足立郡指扇・川田谷・石戸・箕田・馬室その他の町村で産出するタンスは郡内の特産として、東京に輸出するものが二〇〇余戸にも及び、その産額が二〇〇〇万円以上にもなったという(近代№五〇)。この地域の桐タンスが繁栄した理由は、この地域の地味が桐栽培に適しており、比較的容易に良質な桐材を入手することができたことと、生産コストを下げるために仕上げは行わず価格の引き下げを行ったことにあった。材質の良さと価格の安さという競争力を持つことによって、需要は拡大をしていった。

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