北本市史 通史編 近代

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第3章 第一次大戦後の新展開

第3節 国民教育体制の拡充

1 小学校の拡充と教育の新動向

就学者の増加と校舎の増改築
明治四十年(ー九〇七)三月、第三次小学校令を一部改正して義務教育年限を四年から六年に延長した。その年の埼玉県の就学率は、男九八・九パーセント、女九七・ーパーセント、男女平均九八・ーパーセントであった。この数字はいずれも全国平均を上回っている。そして九年後の大正五年(ー九二六)には、本県の男女平均就学率は九九パーセントを超(こ)え、国民皆学の目標をほぼ達成した。といっても、その数字は多分に名目的数値であって、実質的就学率すなわち日々出席率を示すものではない。また、入学しても中途で退学する者も少なからず存在した。同九年九月の県訓令(第三二号)には
「学齢児童ノ就学歩合ハ優ニ全国平均ラ突破シ、大正九年度ニ於テハ実二百人中九十九人五分五厘ニ達ス、国家教育ノ為メ深ク欣(よろこ)フへキ所ナリトス、然ルニ翻(ひるがえ)ツテ之ヲ町村並ニ小学校ノ実際二徴(ちょう)スルニ、学齢期中ノ中途退学者甚タ多キヲ見、更ニ其ノ事情二鑑(かんがみ)ルトキハ決シテ此ノ計数ノ美ヲ以テ満足スル能(あた)ハサルモノアルカ如シ、今最近八ヶ年間ニ於ケル尋常小学科入学児童ニ対シ之力卒業スル者ノ歩合ヲ見ルニ、平均百人中六十九人九分八厘ニシテ、女児ノ如キ実ニ六十二人六分ニ過ギス」

(『県史資料編二五№二九四)


と述べられ、郡役所、町村役場、町村立小学校をしてー層就学義務の励行に努め、国民教育の普及徹底を期すよう要請した。
本市域の、当時の学校である石戸・中丸両小学校の実質的就学率を、正確に体系的に知る資料は残念ながら不詳(ふしょう)である。したがって、両者の間の関係を分析し就学の実態を明らかにすることができない。現在、かろうじて知り得るのは、学校史を通じてみた児童数の変遷(へんせん)である。それぞれの学校史にしたがって表示すれば石戸・中丸の児童数の推移は図16・17のとおりである。両校の間にはおよそ二〇〇人位の規模の違いが認められるが、児童数の増減には相共通した動きがみられる。すなわち、大正期の前半は共に目立った増減がなく橫ぱい状態にあるが、後半に入ると一転増加傾向に転じている。就学児童が増加すれば、必然的に校舎は狭隘(きょうあい)になる。ここに校舎の増築問題が、両村にとって重要な行政上の問題として提起された。まず中丸村では大正八年(ー九一九)三月二十五日、村立尋常高等小学校の増築申請書を県知事に提出した。それには「収容児童数増加ノ為校舎狭隘ヲ告ケ候」(県行政文書大一〇二六)と増築の理由を述べ「設計ノ大要」が示されている。その「増築坪数調」には、建坪ー二七坪七合五勺、うち校舎ーー四坪七合五勺一棟、便所一〇坪一棟、渡り廊下三坪一か所、と増築の内容が記されている。そして「児童数調」には、「調査ノ結果大正八年度以降四カ年間八年々壱学級宛(あて)増加スベキ趨勢(すうせい)」であることを明らかにしている。この増築申請は同年五月三日に認可され、早速工事に取りかかったが、予定より遅れて九月六日に落成した。増築された校舎は五教室、廊下・昇降口等を合わせてーー四坪七合五勺で、玄関をはさんで西側に明治四十三年(一九一〇)増築の校舎二教室を接続して一棟とした。

図16 石戸尋常高等小学校児童数の推移

(『石戸小学校60年史』P157より作成)

図17 中丸尋常高等小学校児童数等の推移

(『中丸小学校80年史』P84より引用)

それから三年、再び校舎の増築に取りかかった。すなわち、本校の旧校舎は明治二十年に東間村連合の山中学校として建てられ、築三五年を経て老朽化が進み、使用に耐(た)えないような状態にあったので、それらを取り壊して八教室の校舎及び宿直室、小使室等を増改築しようとする計画である。この計画が村議会で議決されると、新島村長は大正十一年(ー九二ニ)二月十八日、校舎増築申請書を県知事に提出し認可を求めた。同年三月認可されると、直ちに老朽(ろうきゅう)校舎は全部取り壊され、校舎の新築工事に着手した。そして同年十一月十一日に竣工、二十九日に近隣町村長、村内関係五〇〇余名を招き、盛大に落成式を行った。当日は花火を打ち上げ、児童に紅白餅を配り、村を挙げて校舎の落成を祝ったという。増築校舎は大正八年(ー九一九)増築の校舎と平行して建てられ、間口四五間、奥行五間、八教室約二三〇坪で渡り廊下で結び、その中央部に宿直室と小使室が配置された。総エ費は一万七ー八二円六銭であった。

図18 中丸尋常高等小学校の校地校舎平面図(大正12年)

(『中丸小学校80年史』P97より引用)

校地・校舎の拡張とともに、教具類も次第に整備されてきた。すなわち裁縫断板の新調(大正三年)、教壇の新調(同四年)、オルガン、人体模型、昆虫採集用具、三球儀・排気器・起電器・膨張(ぼうちょう)試験管等の理科実験器具の購入(同六年)を行った。
一方、石戸村でも「村立小学校児童年々増加ノ結果狭隘(きょうあい)ヲ来シ、全児童ヲ収容スルコト能(あた)ハサル現況ニ付」(県行政文書)同十三年二月十四日、田島村長は県知事に校舎増築を申請した。同年三月七日に認可されたので、木造平家建て瓦葺き一棟四五坪の校舎(唱歌室・裁縫室・廊下)を増築した(県行政文書大一五七四ー九)。さらに、昭和二年一月十日、雨天体操場兼用謎堂の建築認可申請(近代№ニーー)を行い、幅八間・縦十五間(ーニ〇坪)、スレー卜葺の雨天体操場兼用講堂を建設した。翌三年には職員住宅(三七坪)を新築するとともに、各種備品の充実(オルガン、電気時計、秤(はかり)、校門等)を期した。なお、講堂及び住宅等の建設に伴う敷地として、大正三年より昭和三年の間に校地ーー四七坪が拡張された。当時は、雨天体操場兼用講堂の建設は珍しく、当村が近隣に誇り得る施設の一つであった。

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