北本市史 通史編 近代

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第3章 第一次大戦後の新展開

第3節 国民教育体制の拡充

1 小学校の拡充と教育の新動向

御真影の奉載
「御真影(ごしんえい)」とか「御影(ぎょえい)」という語は今日もはや死語になっているが、大日本帝国憲法の下では教育勅語とともに国民教育の一大シンボルとして重要な役割を果たした。
ところで、御真影(又は御影)とは第二章でも述べたように天皇・皇后の公式肖像写真のことであって、それが学校に下賜(かし)されるようになったのは明治十五年(一八八二)ごろからであるが、小学校にまで下賜されたのは明治二十年代に入ってからである。そのきっかけは同二十二年十二月の文部省総務局長の道府県知事宛(あて)の通牒(つうちょう)である。この通牒によって高等小学校へも申し立てによって下賜されることとなったが、その場合、「他ノ模範トナルへキ優等ノ学校」ということがその要件であった。
ここから知られるように、御真影は教育勅語と異なり、全国の小学校に一律に下賜されたわけではない。下賜の要件に合致して初めて配布されるものであるから、下賜された学校は、大変名誉なことと考えられた。したがって、選ばれて学校が御真影を受領する時には、拝戴式(はいたいしき)の名のもとに一大セレモニーが行われた。しかし、明治二十五年五月に「近傍(きんぼう)ノ学校へ下賜セラレタル御真影ヲ複写シ奉掲(ほうけい)」することが許され、さらに翌六月に市販のものを用いてもよい、となるに及んで、それは各地の尋常小学校にも広く普及することとなり、高等小学校に付与された「選ばれた名誉」としての特権はなくなった。
文部省は明治二十四年十一月十七日、「御影(ぎょえい)並教育ニ関スル勅語謄本(とうほん)ノ件」を訓令し、両陛下の御影および教育勅語の謄本は「校内一定ノ場所ヲ撰(えら)ヒ最モ尊重ニ奉置セシム」とした。埼玉県では、御真影(ごしんえい)の複写が許可された明治二十五年(ー八九二)の九月、「御影奉掲(ほうけい)手続」を定め、複写の手続きを規定するとともに、翌十月久保田知事は御影の収蔵に関して訓示し、守護の方法を厳重に指示した。御真影を教育のシンボルとして戴(いただ)くことは大正・昭和へと慣行化された。天皇が替(か)わるたびに御影の下賜を希望すれば、市町村長はその都度(つど)知事に御影の下賜を申請し、交付を受ける。その際には必ず守護方法を申請書に明示することが義務づけられた。
石戸村では明治天皇の崩御(ほうぎょ)、大正天皇の即位に当たって、大正二年(一九二ニ)十二月四日、新天皇・皇后の御真影の下賜(かし)を申請した(近代№二〇五)が、その申請書には図面を添えて奉置所の構造や守護方法が述べられている。

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