北本市史 通史編 近代

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第3章 第一次大戦後の新展開

第4節 生活と文化の展開

1 地方軍事組織の強化

愛国婦人会

写真128 愛国婦人会通常会員証

(加藤一男家 214)

愛国婦人会は、明治三十四年二月、奥村五百(いお)子が近衛篤暦(あつまろ)の庇護(ひご)の下に軍部の協力をえて、総裁に皇族をあおいで創立した。奥村は肥前唐津の出身で、義和団事件の際慰問使に参加、その経験から帰国後傷病兵・遺族保護などを目的に会を設立した。会が飛躍的に発展したのは日露戦争時であって、同三十七年末に会員数が二七万八〇〇〇人と前年の六倍に増加するなど、国内のみならず広く海外にまで支部が結成された。特に海外支部では「愛国の功業に従事する」娼婦らが会員となり多額の献金をしていた。しかし、「半衿(はんえり)ーかけを節約して軍事援護を」とのスローガンにみられるように会は「上流階級」の女たちを主体としていた。しかし、昭和十二年七月、蘆溝橋(ろこうきょう)事件をきっかけに日中戦争が勃発(ぼっぱつ)するやすばやく対応し、「婦人報国」連動が本格的に展開されていった。
埼玉県では昭和十二年七月三十一日、愛国婦人会埼玉県支部が約ー〇〇人の参加者を集めて時局婦人大会を開き、「銃後(じゅうご)の守り」を誓った。非常時の波に乗って愛国婦人分会の結成が相次いだ。
市域においても愛国婦人会は国防婦人会とともに、出征兵士の壮行、留守宅慰問、戦傷兵士や遺骨の送迎、弔慰(ちょうい)、軍人遺家族への職業斡旋、戦地への慰問金品の寄付、国防資金の献納などの日常活動に取り組むとともに、「銃後後援強化週間」など国家総力戦体制の一環としての諸行事にも積極的に参加した。

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