北本市史 通史編 近代

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第3章 第一次大戦後の新展開

第4節 生活と文化の展開

2 関東大震災

人々の対応
震災後、県はただちに堀内知事を本部長とする臨時震災救護部を設置し、被害状況の調査と罹災(りさい)者に対する救護措置の徹底を指示した。そして翌二日早朝から、県は震災救護事務処理規定に基づいてー白米・副食物などの現物給与を行う一方、日赤支部、財団法人埼玉共済会、県医師会などに対して暖週間の炊出(たきだし)と、災救護の協力を要請し、負傷者の応急救覆、衣貌・毛布の配給、宿泊の世話などにあたった。
ところで、罹災者の救護で大変だったのは隣接する東京からの避難民であった。特に埼玉県は荒川を隔てて東京と境界を接し、鉄道も寸断されていたため、東北地方や信越方面へ着のみ着のままで逃れる京浜方面からの避難民が殺到(さっとう)した。避難民の流入は九月一日の夕刻から始まり、その数も日を追って増加し、九月三日・四日には避難民と京浜方面への見舞客を合わせて一日で三〇万人にものぼり、中山道をはじめ県内の主要道路は、生活物資の緊急(きんきゅう)輸送にあたる車馬の通行と入り混って混雑をきわめたという。
表63 市域における震災避難民罹災地別調
罹 災 地調 査 日滞 在 者 人 数内救護を要する者備 考
東 京 市 内  十 月 三日 三七五人 三四五人
十 月二十日 二六三人 二〇二人
十一月 三日一六五人一三〇人
横 浜 市 内  十 月 三日 九人七人
十 月二十日 三人二人
十一月 三日二人二人
東 京 府 下  十 月 三日 五〇人三六人
十 月二十日 三五人二六人
十一月 三日二〇人十五人
神 奈 川 県 下 十 月 三日 〇人〇人
十 月二十日 一人一人
十一月 三日三人三人

(大正十二年 石戸村役場震災関係書綴より引用)


写真129 震災義損金に対する謝意

(加藤昌一家 51)

市域でも県の要請によって、救護所を設置して救護活動にのり出した。救護所は石戸村大字下石戸下字ニッ家に中山道に面して設置され、九月三日の午前八時から救護を開始し、十日の午後五時まで、村の吏員・青年団・村内篤志(とくし)者によって共同で十日間昼夜連続で行われた。主として焚出と物品給与と護送が行われ、これに要した費用は計参拾七円五四銭にのぼった。その内訳は白米二斗一升・八円四拾銭、甘藷(かんしょ)四俵・拾円、大麦一斗八升・壱円六拾四銭、その他砂糖、ローソク、薪炭、梅干などで、救護人員の概数(がいすう)は五〇〇〇人に達している(近代№二七七)。これらを見ても、中山道を通過した避難民の救済に懸命に奔走した人々の姿が偲(しの)ばれる。
九月二十二日に、石戸村長が北足立郡長に提出した報告によれば、石戸村に一日滞在した者五〇名、三日以内滞在した者八〇名、五日以内滞在した者ーニ五名、七日以内滞在者数一八六名、八日以上滞在した者数四四三名、計八八四名にのぼった。
十月三日調査の滞在者内訳は、罹災(りさい)地が東京市内の者三七五名、横浜市内の者九名、東京府下五〇名にのぼった(近代№二七九)。
十月二十三日には北足立郡役所から石戸村長宛に、京浜避難民食費給与に関する件として、北足立郡内に避難した罹災者の中の窮迫(きゅうはく)者に(九月二十日から七日間を限度とする)町村において立替えた給与分及び無資産でほんとうに窮迫していた者については、各人の領収証を村の請求書に添付(てんぷ)して提出することの指示が出ている。各市町村において罹災者救護に要した費用の多大さを物語っている。
また、県は罹災者に対する見舞金として死亡、行方不明者に対し一五円、その他の負傷者等については八円、家屋全壊(ぜんかい)二〇円、半壊(はんかい)ー〇円を支給する一方、六〇万円の県債を発行して各事業所に産業復興資金を貸与し、罹災事業所や罹災(りさい)者に県税や所得税などの減免・徴収猶予(ちょうしゅうゆうよ)の措置(そち)を取った。県はさらに県民に呼びかけて義捐(ぎえん)金の募集を行い、十一月十日までに二万四〇〇〇円余が寄せられた。これを東京都と神奈川県に送付するとともに、県内罹災者へも配分した(『県史資料編二三』P四五八)。
震災に際しては、個人や団体の献身的援助活動があった。それは消防組、青年団、処女会、医師会、産婆会、県衛生協会、赤十字社、山林会、神職会、仏教会、県教育会、在郷軍人会、愛国婦人会、水平社生活改善同盟会など多数にのぼり、それぞれの人々は自己の一身一家の安否を忘れて奔走(ほんそう)したのであった。翌大正十三年(一九二四)八月には、震災記念日を前に知事を通じて総理大臣から功労者に対して感謝状が送られた。市域でも中丸消防組をはじめ中丸分会・中丸青年団などに感謝状が送られた(近代:№二八二)。
ここで触れておかなければならない最もいたましい事件は、関東大震災の中で起った朝鮮人や社会主義者に対する虐殺(ぎやくさつ)暴行であった。発端(ほったん)は九月一日から二日にかけて罹災地の東京府下・横浜などで、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」、「放火して回っている」、また「社会主義者が暴動を起こした」などのデマが飛びかったことにある。しかし、事の背景は日露戦争の最中からの三次にわたる日韓協約の結果、明治四十三年(ー九一〇)七月の日韓併合で、日本が韓国を植民地化したことから始まる。併合以来の朝鮮総督府による憲兵を使った苛酷な武断政治に対し、大正九年(一九二〇)には三・一独立運動事件が起り、植民地支配は行き詰まり、国内においても朝鮮人に対する警戒が厳しくなった。
県南でも九月一日の午後すでに流言が広がっていた。内務大臣の水野練太郎(三・一独立運動事件の直後の朝鮮総督府政務総監)は、戒厳令の施行を決意して、二日にそれを発布した。県では内務部長が二日に次のような通達を出した(『県編二三№一九四)。
今回の震災に対し、東京において朝鮮人の盲動これあり、またその間過激思想を有する徒らに和し、以って彼らの目的を達せんとする趣に聞きおよび漸次(ぜんじ)その毒手を振はんとするやの惧(おそ)れこれ有候に付ては、此の際町村当局者は、在郷軍人分会消防隊青年団と一致協力して、その警戒に任じ、一朝有事の場合には速(すみ)やかに適当の方策を講ずる様至急相当御手配相成たく(後略)

と流言を追認する通達を出したこともあって、各地で在郷軍人会や青年団、消防隊を中心に組織された自警団は朝鮮人に対する謂(いわ)れなき虐殺(ぎゃくさつ)を行った。その結果、東京、神奈川・埼玉を中心に推定六〇〇〇人の朝鮮人と約二〇〇人の中国人が殺害された。埼玉では約二二三~二四〇名が虐殺されたが、それは本庄、熊谷、神保原を中心としている。虐殺事件を起した日本人の中には、朝鮮人を殺したのだから勲章(くんしょう)をくれ、という者まで現れたという。
政府は事件のひろがり、国際世論への配慮から、九月四日ごろから必死になって防止に乗り出した。埼玉県でも四日に南埼玉郡長、警察署長連名で各町村長、在郷軍人分会長、青年団長あてにデマを打ち消す通牒(つうちょう)を発するなど、一転して虐殺防止の姿勢に変わった。震災というパニックの中でこのような虐殺事件が発生した背景には、震災直後の・混乱の中で生まれた民衆の不安と流言蜚語、当局の誤った通牒、治安警察機構の動揺、植民地化された朝鮮民族への差別意識があり、これらが重なって生じた惨劇(さんげき)であった。

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