北本市史 通史編 近代

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第3章 第一次大戦後の新展開

第4節 生活と文化の展開

4 新宗教

市域の新宗教
『埼玉県市町村誌第四巻』北本市の項(P三四)によれば、市域の新宗教団体として天理教石戸宣教会と解脱(げだつ)会(通称)及び光徳教足立分教会を挙げている。
天理教石戸宣教会は大正十二年(一九二三)十一月に設立認可され、天理教日本橋大教会に属していた。この教会がこの期に下石戸上に設置された経緯をたずねるには、天理教の教勢拡大と主管者新井角三郎との関わりに着目する必要がある。
天理教は、天保九年(ー八三八)大和国(奈良県)の中山みきが人頭創造神(親神「天理王命」)の教えに基づき開教した宗教である。明治二十一年(ー八八八)四月、神道直轄天理教会として設置許可を受け、地元奈良県を中心として急速に教線を拡大していった。
表64 日本の主要教団一覧 新興教団
類別教団名所在地開創年公表信者数(人)
教派神道系黒 住 教岡 山 市1814295,225
諸 教 系天 理 教奈良県天理市18381,839,009
法華宗系本門仏立宗京都市上京区1857526,337
教派神道系金 光 教岡山県金光町1859442,584
教派神道系大 本京都府亀岡市1892172,460
教派神道系ほんみち大阪府高石市1913316,825
諸 教 系円 応 教兵庫県山南町1919419,452
諸 教 系P L (略称)大阪府富田林市19241,259,064
天 台 宗 系念法真教大阪府鶴見区1925807,486
真 言 宗 系解 脱 会東京都新宿区1927237,475
諸 教 系生長の家東京都渋谷区1930838,496
日蒲宗系霊 友 会東京都港区19033,202,172
真 言 宗 系弁 天 宗大阪府茨城市1934302,407
諸 教 系世界救世教静岡県熱海市1935835,756
真 言 宗 系真 如 苑東京都立川市1936679,414
日蓮正宗系創価学会東京都新宿区1937*
天 台 宗 系孝道教団横浜市神奈川区1938400,720
日 蓮 宗 系立正佼成会東京都杉並区19386,348,120

(平成3年版『宗教年鑑』(1991年文化庁より作成)


県内の教会数増加の趨勢をみると、日清戦争後の数年間を第一次発展期、同四十一年の独立公認後、第二次世界大戦にかけて第二次発展期、大正十一年から同十五年にかけて第三次の発展期を迎えた。石戸宣教所の設置はまさにこの期に当たる。
大正十二年八月六日、下石戸上の岡村嘉太郎、伊藤嘉六、鴻巣滝馬室の島田市五郎の三人の信徒総代は、宣教所の担任者(所長)新井角三郎等と連署で、堀内県知事宛に宣教所設置願(石戸村五七三)を提出している。添付された規約書によると、国常立尊(くにとこたつのみこと)外九柱の神々を天理大神と総称し、教義宣布のため行う宣教は「衆庶ヲ化導シテ、処世安心ヲ得シムル」こととし、弘布は説教と講話の二法によっていた。この宣教所を設置した理由は「石戸村並ニ其近村方面ニ於テ本教信徒追々増加シ布教ノ便宜(べんぎ)ヲ謀(はか)ル」ためであった。因(ちな)みに当時の所属教徒及び信徒数は、教徒八名(男四、女四)、信徒ーー〇戸(男二八七、女二八六)であった。宣教所の位置は石戸村大字下石戸上二九番地、敷地は一五〇坪、建坪は三五坪であった。この敷地や、建物は担任教師新井角三郎が寄付したものであった。角三郎は明治三年(一八七〇)五月二十日に当地で生まれ、同村真福寺で九~ーニ歳まで修学、大正九年に日本橋大教会で天理教講習を受け、翌十年に天理教別科を卒業、教導職権訓導を拝命していた。従って宣教所が日本橋大教会に属したのは、角三郎と同大教会との結びつきによるものであった。
解脱会は、北足立郡中丸村北本宿(現大字北本宿)出身の岡野聖憲が開教した新宗教団体である。彼は明治十四年(ー八八一)十一月、父岡野牧太郎、母きせ夫妻の次男として生れた。生家は江戸時代に名主役を、明治初期には副戸長を勤め、父は富士講の熱心な信者でもあった。俗名英蔵、聖憲は法名であり、さらに昭和十四年五月三日には埼玉県知事より改名の許可を得て、これを戸籍名としている。明治二十七年、中丸尋常高等小学校を中退し、東京へ奉公にでたが、兄の徽兵により帰郷、家業の農業と賃機業に従事した。賃機業は、同二十七年冬ころ、父が開業したが、折からの機業景気の中で、同三十三年に「岡野機業」を創設し、足踏機を導入した織物工場と賃機業を併行して行う形で出発した。しかし、国産の力織機が急速に普及して行く中で事業は次第に不振になり、いろいろと再建策を試みたが失敗した。同四十三年、海連業に就職し、次第に頭角を現した。大正四年(ー九一五)以降、第一次世界大戦の景気もあって財を築いたが、関束大震災後の商業道徳退廃の風潮の中で大きな打撃を受けた。

写真133 北本宿駅新設記念碑

北本

その心労もあって大正十四年の夏に大病をわずらった英蔵は、入院中に神秘的な体験をし、同時に日本の将来に深い憂いを持ち、その後、丹沢山系の跋歩(ばっしょう)等を通じて独自の修業を重ねつつ宗教の世界へと歩みを進めていった。そして昭和三年の暮れに〃精神教化の道〃を樹立する決意を固め、その出発点である翌四年を立教の年とした。さらに同五年には会名を解脱会とし、霊符による「御五法修業」や供養札に甘茶を注ぐかたちで行う「天茶供養」等を始めた。生家付近にあった小祠(しょうし)や天満天神社・多聞寺等への参拝も行われ、後にこのー帯は「御霊地」とされる。同六年には山梨県の泰裕院、京都の醍醐寺(だいごじ)三宝院で得度し、法名を聖憲とした。聖憲が既存の伝統的仏教団の傘下に入ったのは、当時の天皇制国家とその宗教統制の下で、合法的宗教活動を維持するためのやむをえざる措置であった。やがて会員の増加により、組織の存立基盤を明確にする必要から、同八年十二月「真言宗醍醐派醍醐教会解脱分教会所」の設立を埼玉県に申請、翌九年一月十二日に認可された。分教所の所在地は中丸村北本宿五四四番地の五(当時)で、そこの四八坪の土地に建てられたーニ坪ほどの木造平屋が分教会所となった。以後、解脱会は信仰面の中心地を聖憲が生誕した北本宿の「御霊地」とし、布教の拠点を東京・四谷の道場に置くという形で活動を展開していった。その結果、霊地を訪れる会員が次第に増加したため、同十一年七月、霊地に建坪五七坪の「感謝会館」を分教会所の左隣(中丸村北本宿字上原五四四の五)に建設した。その後同十九年末、聖憲が四谷区荒木町から北本宿の霊地に疎開してからは、諸行事はこの感謝会館で行われ、この状態は聖憲が死去する昭和二十三年まで続いた。感謝会館は、現在、霊地の宝物館脇に移築され「解脱金剛記念館」となっている。
昭和十五年四月には、戦時体制下の宗教団体法の施行にともない宗教結社「解脱報恩感謝会」を設立して、戦中から戦後にかけて生活即宗教の精神を土台とし、国家社会への奉仕を実践する活動を展開していった。
また聖憲は、敬神崇祖・感謝報恩の生活の実践を中心とした教えを月報「解脱教」や書籍等に記しているが、その内容は体系化された教義という形はとっていない。解脱会では現在もこの姿勢を受け継ぎ、聖憲の著作である『真行』や、彼が記した文章を集大成した『解脱金剛尊者ご聖訓』(全一〇巻)等を根本の教書として教えを展開している。
北本と解脱会との関わりは、会祖岡野聖憲の生誕地が北本宿村であったことと、現北本市緑一丁目を中心とする地を「御霊地」と定めたことによる。聖憲は郷土と深く関わり郷土に尽くすことを実践した。
彼は国策に沿って数回にわたり中丸村出征家族への慰問、中丸小学校への国旗や教育費の寄付、中丸村村道改修エ事費や北本宿駅新設記念碑建立費の寄付などを行った。例えば、同十四年六月には中丸村村道改修舗装工事に際し、公益に資するとして二八〇〇円を寄付し(近代№三二五)、同十六年には、中丸国民学校教育費として、ー〇〇〇円の寄付を行った(近代№三二六)。
また昭和六年五月に第一回大祭を開催した(近代№三ニ〇)。以後、昭和七年十月十六日には第一回秋季大祭を開催、同九年五月八日には初めて一列車を借り切って、春季大祭(近代№三二三)を行い、この年から春秋二回の大祭が年中行事化された。

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