北本市史 通史編 近代

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第3章 第一次大戦後の新展開

第1節 地方自治制の再編成

1 地方改良運動から民力涵養運動へ

身分解放令と水平社運動
同和問題は、「日本社会の歴史的発展の過程において形成された身分階層構造に基づく差別により、日本国民の一部の集団が経済的・社会的・文化的に低位の状態におかれ、現代社会においても、なおいちじるしく基本的人権を侵害され、とくに、近代社会の原理として何人にも保障されている市民的権利と自由を完全に保障されていないという、もっとも深刻にして重大な社会問題」(「同和対策審議会答申」一九六五年八月十一日)である。
その特徴は、封建社会の身分制度によって同和地区住民が最下級の賤しい身分とされ、職業、住居、婚姻、交際、服装等、社会生活のあらゆる面できびしい差別を受けていた点にあった。その差別が、明治以降も政治的、経済的、社会的に解消されず、その解消は今日の日本国憲法のもとでも、なお大きな「国民的課題」となっている。
明治四年(一八七一)七月、維新政府は幕藩体制を完全に撤廃する廃藩置県を断行するとともに、同年八月二十八日、「穢多非人等ノ称廃サレ候条自今身分職業共平民同様タルへキ事」(太政官布告第六十一号)という賤民身分廃止のいわゆる「解放令」を発し、旧来の賤称を廃止し、身分・職業とも平民と同様とするとして、一応制度上の身分差別を撤廃した。
しかし、この布告は旧来の身分制度を廃止した点でその歴史的意義は大きかったが、単なる形式的解放宣言にとどまり、実質的な解放を保障するものではなかった。そればかりか、幕藩体制下で認められていたさまざまな生活特権や一部租税の減免権が剝奪され、かえって新たに兵役・教育などの義務が課せられたため、同和地区住民は、旧来の封建的身分差別のうえに、さらに経済的貧困の差別が追加されることになった。
このため、「解放令」の布告に大きな期待をかけていた同和地区の人々は、やがて、差別の過酷さを黙認していたのではそれを撤廃できないと自覚し、明治中期以降、関西を中心としてさまざまな行動をおこしはじめた。同和地区住民自身による自主的で組織的な部落改善運動がそれである。この運動は、わが国の資本主義の発達に伴う同和地区の窮乏化を背景として強力に展開された。
大正期に入り、同三年(一九一四)の第一次世界大戦から同六年のロシア革命に至る時期は、護憲運動の髙揚がみられ、民主主義的風潮が強まり、多くの社会運動や騒動が起った。なかでも、ロシア革命への干渉戦争であるシベリア出兵によって米をはじめ諸物価が高騰すると、翌七年七月、富山県滑川町の主婦らによる米移出反対の行動から端を発した米騒動の嵐が全国に拡大し、各地で貧困にあえぐ同和地区の人々が多数これに参加した。
埼玉県下では、同年八月入間郡川越町(現川越市)、鉄道院大宮工場(大宮市)、比企郡松山町(現東松山市)、北埼玉郡南河原村など相次いで騒動が起った。こうした状況下において、各地で融和団体がつくられ融和事業が進められた。しかし、その内容は差別的社会の仕組みはもちろん、一般の人々に対する差別撤廃のための啓発には眼をむけず、差別をそのままにして部落を分離し、主として自力更生による改善を主とする同情融和主義的傾向の強いものであった。
県でも、渋沢栄一ら有志の協力を得て、翌大正八年四月、財団法人埼玉共済会を設立、同十二年(一九二三)には埼玉県社会事業協会を設立して、融和事業の推進母体とし、地主層と県同情融和委員や部落改善方面委員を中心とする融和政策を強化していった。
融和事業が全国的に強化されるなかで、大正十一年(一九二二)三月三日、京都の岡崎公会堂で、同和地区住民自らの解放運動組織である全国水平社が設立された。埼玉県からは、北足立郡箕田村(現鴻巣市)出身で、後に埼玉県水平社を結成する近藤光らが参加した。この大会では、「全国に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ」で始まり、「人の世に熱あれ、人間に光あれ」で終わる歴史的な宣言と綱領が採択され、「徹底糾弾」闘争が決議された。ここにいわゆる水平社運動が開始されたのである。
これを受けて同年四月、京都府水平社の結成に次いで、十四日、全国二番目に埼玉県水平社が近藤光の生家である成塚家(現鴻巣市)で結成された。この創立大会には県内各地から三〇〇余名(五〇名ともいう)が参加し、決議文を決議した。北本からも数名が参加し、執行委員長に成塚政之助を選出した。
県水平社はさっそく十月に、大里郡下のシベリア出征兵士記念碑事件を糾弾し、進行中の小作争議も支援した。同年十一月、熊谷町で水平社が結成されると、従来部落改善事業に関わっていた人々も水平社運動に合流し、各地で水平社支部が結成されていった。一方、青年たちもこれらの動きに呼応し、大正十二年七月、忍町で埼玉県青年水平社を創立させた。彼らは水平社運動の展開のために県内の巡回講演を企画し、この夏、北本でも神社境内に三〇〇余名をあつめ講演会が盛会に催され、その翌年も開催された。こうした解放運動の高まりの中で、北本では一戸一〇銭を積立て大会参加費に充てる貯金が行われた。また、こどもたちの中からも解放への自主的立上りが見られ、彼らは解放の歌を歌いながら学校に登校したという。
県下の水平社運動は、いわゆる労・農・水の三角同盟、特に農民運動と結合して展開する各地の差別事件や小作争議に勝利し発展していった。水平社の運動は、差別言動に対する糾弾闘争(『県史通史編六』P二九八)の形態を積極的にとりながら運動を推進していったため、一面では激しい闘争も伴った。
こうした水平社運動の激化のなかで、政府も地方改善事業費を増額しつつ、大正十二年(一九二三)八月、内務省の外郭団体である中央社会事業協会(会長渋沢栄一)に地方改善部を設置、融和事業を再推進するが、昭和六年九月、満州事変が勃発すると、地方改善事業を時局匡救事業と位置づけ、融和事業の総合的進展に関する要綱を定めた。十一年からは「融和事業完成十か年計画」を推進、同和地区の経済生活の向上、教育・教化の徹底、市町村融和協同組合、授産場設置などが目指された。埼玉県では、県及び埼玉県社会事業協会が計画推進に当たり、北本も十か年計画の指定を受けた。
その後県水平社は、昭和十一年十二月に、同年二月の総選挙で衆議院議員に労農党候補として当選した松本治一郎全国水平社委員長を桶川町甲子座にむかえ、埼玉県水平社再建大会を開催し、政府の融和事業完成十か年計画に対抗して、部落改善費増額獲得闘争を提起した。しかし、翌年七月七日、日中戦争が勃発するなかで、農民戦線統一を弾圧された埼玉人民戦線事件以後は、県下の水平社運動は冬の時代に入っていった。やがて時局の緊迫とともに昭和十六年十二月、政府が、戦時体制強化の一環として「言論・出版・集会・結社等臨時取締法」を施行すると、翌年一月、全国水平社は自然消滅させられ、戦前の水平社運動は終わりを告げた。

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