北本市史 通史編 近代

全般 >> 北本市史 >> 通史編 >> 近代

第4章 十五年戦争下の村とくらし

第4節 十五年戦争下の生活と文化

5 戦時下の人々のくらし

大政翼賛(よくさん)会と国防婦人会

写真165 大日本翼賛壮年団員入団許可証

(関口重太郎家 67)

日中戦争の長期化に伴い、政府・支配層が直面した最大の課題は、国家総力戦体制をいかにして樹立するかということであった。昭和十五年六月、近衛文麿は枢密院(すうみついん)議長の職を辞し、新体制連動(新党運動)に乗り出す旨の声明を出した。近衛の意図は新しい国民組織を背景にした強力内閣を組織し、軍部を抑制(よくせい)して日中戦争を解決することにあったという。近衛声明が出されると、七月六日の社会大衆党を皮切りに既成政党は次々と解散していった。そして七月第二次近衛内閣が成立した。同年八月十五日の立憲民政党の解党により明治憲法発布以来はじめて無政党時代が出現した。すでに産業界ては産業報国運動が展開され、さらに農業報国連盟が結成され、また労働組合などの社会組織も解散をよぎなくされ、以後、国家総力戦のための官製国民運動組織のなかへ吸収されていく。
各政党の本部が自主的に解散していく過程において、各都道府県及び市町村の政党支部も次々と解散へむけて動き出した。本県でも昭和十五年十二月、大政翼賛(よくさん)会埼玉県支部が発足した。
政府主導の翼賛運動は必ずしも実効を挙げ得なかった。このため翌十六年七月には推進員制度を置いて、大政翼賛運動を鼓舞(こぶ)することになった。しかし、この年の十二月八日、太平洋戦争に突入したことにより運動をさらに強化して国民を戦時体制に糾合(きゅうごう)する必要が高まった。このため昭和十七年一月には、新しく大政翼賛会壮年団を結成して翼賛運動の実践部隊とした。中丸村でも同年七月に中丸村翼賛壮年団が結成され、団則がきめられた(近代№七九)。
さきにみたように、昭和十五年に大政翼賛会埼玉県本部が発足したが、その県支部長には知事、市町村支部長には市町村長が就任した。
このような各種団体の中で愛国婦人会や国防婦人会の活動は、地域の生活に密着したかたちで展開していった。明治三十四年(一九〇一)に創立された愛国婦人会は、昭和十七年蘆溝橋(ろこうきょう)事件が起こると、すばやく対応して非常時体制の下に出征兵士家族及び戦死者遺族援護のための分会組織の整備や兵器献納計画、傷病兵療養施設の検討などを実施していった。
一方、大日本国防婦人会は軍部の強力な後押しをうけて、昭和十二年に結成された。国防婦人会は白いかっぽう着(エプロン)とたすきがけの姿で街頭にくり出し、会の勢力を拡大していった。活動内容は①出征・帰還・遺骨送迎②出征・戦死者遺家族慰問③出征兵士への慰問文・慰問袋送り④病院慰問・奉仕・軍事講演会⑤出征家族に対する労力奉仕⑥神社参拝⑦廃品回収・抜毛(ぬけげ)蒐集(しょうしゅう)⑦貯金⑧真綿・梅干供出献納⑨石鹸(せっけん)等日用商品扱資金獲得などであった。
国防婦人会中丸分会は昭和十二年に結成され、愛国婦人会埼玉支部とともに「軍国の母」として「家庭国防の完璧(かんぺき)」・「銃後の奉公」という点に立って戦争体制の推進にむけて国民一人ひとりの日常レベルの運動がはかられた。特に慰問等の費用を捻出(ねんしゅつ)するために廃品回収が行われ(近代№二九五)、また、軍用絨(じゅう)類原料取得のために反毛材料の蒐集などが頻繁(ひんぱん)に行われ、これは反面、国家の戦争遂行体制において経済面での脆弱(ぜいじゃく)さを示すものといえる。

<< 前のページに戻る