北本市史 通史編 近代

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第4章 十五年戦争下の村とくらし

第1節 十五年戦争下の村政

4 石戸村と中丸村の合併

石戸村・中丸村の合併
昭和十七年十月十九日に、村関係者のほか県振興課長並びに北足立郡地方事務所長の出席を得て新村造成研究会が開催され、石戸村と中丸村の合併運動がここに始まった(近代No.八〇)。
戦争完遂のためには国内諸体制の整備・改革が必要であり、行政の簡素化・施設の増強・共同の福利増進などの国策に順応(じゅんのう)するものとして町村合併があげられ、その対応に迫られていた。調査研究の後、十一月十日、中丸村新体制確立期成会が設立された(近代No.八一)。同日、石戸村においても石戸村新体制確立期成会が設立された(石戸村 六一九)。
十二月二日には、石戸・中丸村両村新体制確立期成会実行委員合同会議が開催された(近代No.八四)。その会議録によると、新村造成実行に関しては、満場一致で決定され、新村名は現実的に考え、駅名から北本宿村と決定した。また、その他の事項もこの会議で決定された。役場の位置は、駅前国道の東側において国道に接するところと定め、敷地坪数約一五〇〇坪を予定した。議員定数を一八名とし、新村造成決議日を十二月八日村会の決議により決定することを定めた。また、「両村結合の日」を昭和十八年一月一日と決定した(実際は手続き上の問題で後に二月十一日の紀元節に変更された)。
十二月八日には、石戸村・中丸村の両村会において、両村合併に関する上申書議決がなされた。国道・高崎線付近で相接する両村は、「行政産業経済の中枢点(ちゅうすうてん)」としての北本宿駅を中心として、両村の画期的発展を期することは時代に即応するものであるとした。合併により北本宿村を新設し、村域の拡大を計り、村政を強化しようとしたのであった。県に対し、これが実現することにつき、尽力をお願いしたいとの上申を両村とも提出した(石戸村文書・中丸村文書)。これをうけて、十二月十日付けで埼玉県知事より回答があった。内容は北足立郡石戸村及び中丸村を廃しその区域をもって新たに北本宿村を置き、北足立郡石戸村及び中丸村の財産(権利・義務一切)を北本宿村に帰属せしめることとし、それについて村会の意見を諮(と)うというものであった。十二月十三日、村会が知事諮問について開催され、異議無き旨を全会一致で議決した(近代No.82・83)。
昭和十八年に入ると、両村の合併の実質的行動が始まった。一月四日には、合併事務に対する知識不足による種々の不安を解消するため、優良合併村である茨城県稲敷郡瑞穂村(源清田村・長竿村合併)の視察を実施した(関口満家 八十三)。
二月一日には、石戸・中丸両村新体制確立期成会実行委員会が開催され、合併に関する事項が協議された(『北本宿村の沿革』)。新村役場は、前年の両村新体制確立期成会実行委員合同会議で予定された北本宿駅前道路の突き当たり国道東側に決定し、その予定地の地主との交渉を中丸村実行委員が当たることとなった。新庁舎建設中の仮庁舎として北本宿田中拾氏宅を借用することに決定した。石戸・中丸両村役場吏員に対する慰労金贈呈や名誉職員の慰労金贈呈、物故(ぶっこ)職員の慰霊祭執行に関する事項もこの席で決定された。また、新村発足前に生じている道路敷地に関する問題について、両村に帰属(きぞく)する道路敷等(廃道敷)の処分により生じる収入は、新村発足後といえども両村が別個に処分するという決定をした。そして合併にともなう両村の解散式は二月十一日に両村国民学校で開催することを決定した。合併前の基本的事項がこうして解決された。
内務省の認可により二月五日付けの埼玉県告示を経て、二月十一日より北本宿村が発足することが告示された(近代№八三)。ここに北本宿村の発足が正式に認められ、石戸・中丸両村とも、二月十一日にそれぞれ解散式を挙行し、ここに北本宿村が成立した。
表65 町村区域表
新市町村名合併関係町
村 名
面積官 有 地民 有 有 租 地民 有合 計人 ロ戸 数
種 別宅 地池 沼山 林原 野小 計免 租 地
北 本 宿 村石戸村平方軒
一一・〇三

一・三五
反 別
六四六

五五〇〇

一九〇、七五三


一、七六八

一九

八、五七〇

六七

九、九六三

四、五〇一
七五一
賃貸
価格
一〇、七四三五五、九三九一八、八八一五、一六六四一九〇、七七一
中丸村八・六〇三八七反 別九四一五、二五二一六七、四〇〇一、五一一二〇八、二八二八六八、七五五三、八六五六二五
賃貸
価格
一四、八五六五〇、七一七二三、七〇八四、二二五五八九二、五六四

(『北本宿村の沿革』P四より引用)

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