北本市史 通史編 近代

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第4章 十五年戦争下の村とくらし

第2節 食糧増産と経済の統制

1 食糧増産と供出

食糧の統制

写真146 米の出荷風景

昭和18年ころ(金子敏郎家提供)

国家による主要食糧の管理・統制は、大正十年(一九二一)の米穀法以来長く続いている。米穀法は、昭和八年の米穀調整法に引き継がれ、政府は米の買い入れ・売り渡しをすることによって、米価の調節を行った。農業恐慌(きょうこう)下の米価の低落に対応するものとして、市場に出回る米の流通量を調節したのである。間接的な統制ではあるが、戦時体制に備える第一歩であった。この時期は、朝鮮や台湾からの移入米の増加や未曾有の大豊作の年もあり、米価統制はおもに価格維持を目標としていた。
しかし、同十二年の日中戦争の勃発により事態は一変し、戦時下の食糧事情悪化に備えることが必要となった。このような状況下で、間接的な統制ではなく、政府による直接的な価格の統制の必要性がでてきた。ちょうどこのころ干ばつによる大凶作にもみまわれ、食糧危機に直面していたため政府としても食量自給体制の確立が緊急の課題となっていた。こうして、米にたいする国家の管理・統制が強化されていった。
昭和十四年に米穀配給統制法が制定され、翌十五年には米の自由販売を禁止する米穀管理規則が制定された。この米穀管理規則は、地主・農民の自己保有米の量定め、そのほかの米は政府の管理米として一手に掌握し、地主・農民による自由販売を禁止した、米はおもに系統産業組合を通じて政府に集中された。
同十六年、太平洋戦争に突入したことにより、全面的な食糧統制が必要になり、国家管理・統制はさらに強化され、翌十七年に食糧管理法が公布された。これは不足する主要食糧(米・麦・いも・雜穀など)を国民に公平に配給するために、生産者の自己保有分を除いたすべてのものを政府が強制的に買い上げる(供出)ものであった。中央及び地方には食糧営団が設けられ、配給機構の整備統合と一元化がはかられたのである。政府の買い入れ価格や政府から配給業者への売り渡し価格、配給業者から消費者への販売価格は公定された。国家による直接的な食糧管理・統制の体制がここにできあがったのである。
埼玉県では、昭和十六年五月農作物作付制限規則によって、作付けを制限禁止する農作物の種類・面積その他の事項を指定した(『県史資料編二十二』P四八九)。
表66に見られるように、第一条では、農地の所有者・賃借人・永小作人(えいこさくにん)など農地を耕作する者(権利者)は、その農地に知事の指定する農作物以外の新規作付けを行うことを禁止され、また第二条では、農地の権利者は、その農地に知事の指定する農作物を指定面積(昭和十五年の作付面積)を超えて作付けすることを禁止された。また、表66に示された農作物は、主要食糧増産のためには副次的なものであると考えられたのである。
表66 農作物の作付制限
適用条項適用ヲ受クベキ田、畑ノ別適用ヲ受クベキ農作物ノ種類同左指定 面 積適用ヲ受クベキ地域
第1条田畑果樹、桑樹、庭園樹、街路樹、桐樹、杞柳、竹、マオラン 県下一円
第2条西瓜、蓮根、慈姑(くわい)、甜瓜(まくわうり)、越瓜(しろうり)、黄麻、花卉(かき)、苗木指定農作物毎ニ昭和15年ノ作付面積県下一円
西瓜、甜瓜、越瓜、花卉

(『県史資料編22』より引用)


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