北本市史 資料編 現代

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第1章 政治・行政

第2節 町制下の行財政

3 都市計画
昭和三十年代後半に始まる宅地化は、四十年代に入って加速された。各地で乱開発によるスプロール現象が生じ、行政の立ち遅れが批判されるようになった。そのころ実効ある都市計画をもった市町村は少なく、確かに行政は立ち遅れていた。北本町においても、一応都市計画をもっていたが、基礎調査を欠いたものだった上、財政の裏づけもなかったから実効をもち得るはずがなかった。しかし四十年代に入ると、もはや放置できなくなり、有効な対策が打ち出され始めた。昭和四十一年住宅地問題協議会を設置して乱開発を防ぐ一方、翌年には大規模宅地造成に対して公共施設の整備を義務づけ、財政の負担軽減をはかった。そして住宅公団北本団地建設の際には、同協議会は基準を上廻る公共施設の整備を要望し交渉した。公団は要望事項の多くを受け入れて妥結し(資料29)、間もなく工事が始まったのであるが、それは本格
的な都市化の到来に対する行政の組織的な取りくみを示す出来ごとであった。
右の処置と同じころ、長期的な展望に立った都市計画の策定が進められ、高崎線をはさむ約六〇〇ヘクタールの帯状地域について、用途地域の指定をうけた(資料28)。同資料によれば、指定地域の大部分を住居地域とし、近郊住宅都市としての発展を展望していることがわかる。地域指定は新しく制定された都市計画法(昭四三)の規定によって行われるのであるから、各地域は建築を法的に制限できるようになり、少なくとも住宅と工場・娯楽施設の混在を規制できるようになった。
都市計画法は市域を市街化区域と市街化調整区域とに区分し、両区域それぞれの開発あるいは保全の方針を定めることも規定していた。その区域指定は都道府県知事が決定することになっていたので、埼玉県知事は都市計画地域に指定された県内全市町村について、市街化区域と市街化調整区域の区分と両地域の整備・開発・保全の方針を決定した。北本町では、先に指定された用途地域に中丸の一部と二ツ家を加えた範囲が市街化区域、残りの範囲が市街化調整区域となり、市街地と農地・緑地の配置と両区域の開発あるいは保全の計画、公共施設の整備計画が示された(資料30)。これによって乱開発に歯止めがかかったことはいうまでもなく、ここから本格的な都市計画事業が実施されるようになった。

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