北本市史 資料編 現代

全般 >> 北本市史 >> 資料編 >> 現代

第2章 北本の農業

第5節 市町村合併と農業団体の統廃合

昭和二十年(一九四五)十二月、連合軍総司令部は「農地改革に関する覚書」を日本政府に送付し、農村民主化のための農地改革の実施案、並びに創設自作農の小作農への転落防止策の作成を指令してきた。昭和二十二年十二月、農業協同組合と農業共済保険(農業災害保障制度)は、こうした背景のもとに成立することになった。
前者の農業協同組合は民主的な形式にもかかわらず、実態は極めて権力的な旧農業会の継承であり、経済的な脆弱性を内包していたため、一九五〇年代のドッジ恐慌期に、事業経営の全般的危機に見舞われることになる。こうして、いわゆる財務処理基準令と呼ばれる実費手数料、無条件委託方式と、認証制度の実施をみるわけである。
この経営再建策をさらに進めたものが、農業基本法農政下の農協合併策であった。周知のように、時限立法にもかかわらず、合併助成法の再三に渉る延長によって農協数は半減した。その分、規模は拡大し、資金力も増強されて、経営基盤は固まっていった。
昭和三十六年八月、北本においても石戸、中丸両農協を廃止して、新設合併形式の北本町膜業協同組合に統合する合併案が策定される(資料79)。ただし、北足立郡の中では他市町村に先がけて合併協議会が組織され、両農協の予備契約までこぎつけたにもかかわらず、石戸地区農民の反対意見が過半数に達していることがアンケートによって判明し、合併作業は暗礁に乗り上げることになる(資料80)。結局、北本町農業協同組合の新設合併が実現するのは、協議会発足後三年を経た昭和三十九年一月十八日の第二回臨時総会での議決を待たねばならなかった(資料82)。
なお、多くの場合、農協合併によって組織は大規模化し、建物も立派になるが、反面、指導事業はもちろん購販事業も低調となり、金融事業のみ伸長を示すようになる。とりわけ都市化市町村では、この傾向が顕著に現われてくる。北本の場合もこれに関する資料は採録できなかったが、おそらく例外ではなかったものと思われる。
戦後の農業共済保険制度は、農業協同組合と同じく、昭和二十二年十二月に農地改革の成果である自作農体制の維持・発展と、食糧増産政策の基盤確保を目的として登場する。政策目標をもって成立した農業共済保険だけに、内容も画期的なものであった。
すなわち、当時の基幹作物である米・麦・蚕を保険対象とした全危険作物保険に、大家畜の死亡・廃用、疾病・傷害と中家畜保険を組み合わせたものであり、さらに「全農民の強制加入」と「保険料の五〇パーセント国庫補助」を制度化したものであった。
その後、昭和三十二年に全作物共済制度合理化のための全面制度改正、具体的にいうと、生産力に応じた補塡方式と保険需要に対応した共済金額の選択制の導入、並びに国庫負担率の増大が図られる。
資料77・78は、この年の制度改正と一村二組合併立の不合理を改めるために行われた石戸、中丸両共済組合の合併、及びこれに伴う定款改正を収録したものである。
昭和三十年代後半の高度成長経済の進展は、近郊農村北本の農業にも大きな影響を及ぼし、共済対象作物である米(陸稲)、麦、養蚕の作付・飼育規模の大幅な減少をひきおこした。一方、高崎線沿線に立地する北本では、都市化に対する農地の転用・移動、農業労働力の都市流出などの結果、共済組合員農家の減少が進行した。
資料81は、上記事情に伴う賦課金収入の減少が、事業運営に支障をきたしている状況を示している。同時にその解決策として、複数市町村共済組合の合併によって、組合の経営基盤を強固にし、事業の積極的推進を図るために浮上してきたのが、資料83にみられるような北本・桶川・上尾・伊奈四市町村にわたる広域合併案であった。今日の広域共済組合組織の母胎はこうして形づくられたものである。

<< 前のページに戻る