北本市史 民俗編 民俗編一覧

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第5章 交通・交易

第1節 道

写真1 中山道

(本宿付近 昭和26年ごろ)

北本市内の主要な道といえば、江戸時代には中山道であり、その道は今日でも市街地の中心を通過しているが、この道は旧道ともいわれ、その他に国道として一七号国道がある。
明治、初めの『武蔵国郡村誌」の道路の項目をみると、石戸宿村の場合、川越道、松山道、桶川道があり、中丸村の場合、中山道、岩槻道、菖蒲道、それに村道があり、深井村の場合、中山道、岩槻道、鴻巣道、川越道、それに村道がある。
これをみると、中山道、村道以外は、北本の周囲にある町場である川越・松山・桶川・岩槻・菖蒲・鴻巣などの名前を冠した道になっている。これは、北本市内の人達が、日常生活のなかでどんな町と関わり合いをもっていたかを示しているのであろう。
しかし、今日自動車などの普及により、状況は一変している。
鉄道については、北本市内をJR高崎線が通っていて、市内には北本駅があるが、駅ができたのは昭和三年で、比較的最近のことである。
中山道はエドケードー(江戸街道)ともいわれ、道沿いには二か所に立場(たてば)(本宿村の下茶屋と東間村の三軒茶屋)があったし、一里塚や松並木もあった。


写真2 道標を兼ねた庚申等(宮内)

道には三叉路などに道標がいくつもあったし、現在でも路傍には使命を終えた道標がいくつもみられる。道標のいくつかについてみておく。
宮内にある道標を兼ねた庚申塔は、造立年月が元禄十年(一六九七)十一月で、正面には「右かうのすみち 左いわつきみち」とあり、側面左には「右古川きさいみち 左川こいみち本宿みち」とある。下石戸上の道標を兼ねた地蔵菩薩像は、造立年月日が延享元年(一七四四)十一月十一日で、正面には「これより北かうのすみち これより東かっぱやし地ぞうみち」とあり、側面右には「これより西たかをかし」側面左には「これより南太郎右エ門舟戸川之みち」とある。石戸宿の道標を兼ねた供養塔は、造立年月日が寛政十一年(一匕九九)正月吉日で、側面右に「東おけかわえ一り半 南かわこえ三り」とあり、側面左には「西まつ山え三り 北かうのすえ一り半」とある。これらの道標をみると、江戸時代から川越道とか岩槻道とか鴻巣道とかいわれていたのがわかるし、目的地への距離がわかる場合もある。明治以降の道標についても二例についてみる。下石戸下の道標は、造立年月が大正五年(一九一六)十一月で、正面には「東 右役埸九町学校荒井河岸」とあり、側面右には「西 右桶川」側面左には「南 左蒲桜石戸河岸」とある。本町の道標は、造立年月が大正九年(一九二〇)十一月で、側面右には「西役場学校是ヨリ西六丁」とあり、側面左には「南 石戸厄除大師是ヨリ北三丁」とある。この二基の道標には役場や学校などがあり、時代を反映していておもしろい。

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