北本市史 通史編 古代・中世

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第6章 後北条氏の武蔵進出と岩付領

第5節 豊臣秀吉の天下統一と岩付落城

農兵の徴発
後北条氏は、農民を城普請等に動員するだけでなく、さらに積極的に戦闘要員としての徴発を推し進めた。そのため、太田氏房も天正十五年(一五八七)八月七日と八日に道祖土図書助に二点の印判状を与え、直轄領三保谷郷および道祖土氏私領の人改め(郷内の動員可能な人員の調査)を命じている。それはその直前に北条氏直が、河越領等領国の各地に出した同内容の人改め令に対応するもので、全領国から農兵を徴発する一環としてなされた。
氏房は道祖土氏に、岩付城に召し使うため、郷内に住む十五歳より七〇歳までの者の名を、侍や凡下(ぼんげ)(庶民)、商人、細工人の区別なく報告し、特にそのうち良く働ける年齢の者を選び出してその人数を知らせるよう命じた。そして、弓・鑓(やり)・鉄砲等の武器を用意して忠勤を励むように、また功績のあった者にはほうびを与えると通告している(古代・中世No.二三七・二三八)。氏房の家臣ではない郷村の住民には軍役に奉仕する義務はないが、臨戦体制のもとで後北条氏領国および岩付城を防衛するという大義名分によってその動員が強行されたのである。さらに氏房は、同十六年五月五日には道祖土図書助等の岩付衆八人に合計でニ二名の軍役を課し、太田備中守(びちゅうのかみ)・潮田資忠(足立郡寿能城主)の指揮に従って小田原城の番所の警固を命じた(古代・中世No.二四四)。秀吉との戦闘が迫るなか、市域周辺の在地武士達も遠く小田原本城にまで動員されたのである。

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