北本市史 通史編 近世

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第2章 村落と農民

第4節 農民の負担

6 助郷の成立

助馬と助郷       
将軍家および諸大名の鷹狩と鷹場の管理による諸通行は、江戸前期にあっても少なくなく助馬制を考えるうえで考慮しなければならない要因でもあった。寛永十年(一六三三)五月浦和町の名主に宛てられた「覚」には、江戸・忍間に設置された御鷹部屋を往来する者が手形を携帯している場合は人足を通してもよいが、鷹御用であっても手形を持たない者の人足は通すことを禁じた。ただし、将軍へ献上する上鳥(あげどり)の輸送は格別に例外としている。また、御朱印を持たない鷹匠には伝馬を出さないことが述べられている。同年は幕府の鷹場の外側に御三家の鷹場が設定された時であるから、それらによって混雑する鷹方役人の人馬使用に制限を加えたのである(『中山道浦和・大宮宿文書』)。
こうした実情からも、すでに宿駅人馬のみでは不足しつつある事が知られ、それを補うべく新たな人馬徴発区域を設定しなければならなかった。それが寛永十四年(一六三七)に発せられた助馬(すけば)村の指定である。助馬令とは宿駅近隣の村を助馬村に指定して人馬を提供させ、助馬村高役(たかやく)の免許、宿駅問屋らによる強制的な人馬徴発で、それでもなお人馬が不足の時は助馬村以外からの在郷馬徴発などを認めたものである。
これによって東海道では約二〇〇〇石程度の助馬村が設定され、中山道では赤坂宿に定助(じょうすけ)の名称を持つ助馬村が、同十七年には中津川・落合宿に助人馬がそれぞれさだめられた(『交通史料集八』)。近辺の宿駅では、寛文八年(一六六八)四月大宮宿は定助村の設定を願い、それによれば八か村二三〇〇石の規模を望んでいるが、その可否についての結果は未詳である。一方、翌九年三月板橋から蕨・浦和・大宮・上尾・桶川・鴻巣の七か宿は、人馬役負担の過重さからその救済を訴え、その中に当時の交通事情が次の様に述べられている(鴻巣市金子年一家文書)。
一 中山道板橋から鴻巣宿までの七か宿は、日光への役人の往来や諸街道が合流するので人馬の継送りが多い。特に鴻巣と鉢形にある鷹部屋への鷹の出入り、鳥見役人の往来、諸鷹場への鷹匠役人・餌指(えさし)役人の往来、鷹御用の書状の継送り、上鳥輸送など、数に限りなく昼夜を問わずに継送るので大変である
二 近辺には御三家の鷹場があって、その賄いが多く、また忍・館林・佐野・足利はじめ近隣の旗本主従の通行も多い
三 中山道を通行する諸大名や家臣が多く、常に人馬が不足するので定助村を設定して欲しい
四 七宿のうちには町屋敷地代=地子(じし)を免除されていない宿もあり、其の上に在郷並みの諸役人馬を負担しているので、宿役=御町役との両方の負担はできかねるから、他の宿並みに在郷(村方)に関する諸役は免除してほしい
五 近年米や大豆、飼料が高値になり御定人馬の確保もむずかしい。去年の旱損(かんそん)によりさらに飼料が高値になり、いよいよ伝馬役が負担できない状態にある
以上の五項目は去年から訴願していることなので是非聞き届けて欲しいと述べている。五項目の中の三項目に「常々御賄成兼迷惑仕候、御慈悲ニ定助場所被為仰付被下候ㇵゝ難有存候御事」と、定助村の設定を願っていることは、先の大宮宿が願った定助村の設定を指しているものと考えられよう。ただし、初めから七か宿が連名で願ったものか、または各宿が単独で願い出たかは明らかでないが、大宮宿の定助村設定願いと七か宿の救助願いは、人馬役負担の過重を解決しようとした共通の問題を持つ七か宿が共同しての一連の行動であったといえる。従って、寛文九年(一六六九)三月段階での七宿には定助村が未だ設定されていないことになる。
こうして翌四月に幕府代官熊沢氏から浦和宿宛に、定助郷を設定する旨の覚書が与えられた(『県史資料編一五』)。この定助(じょうすけ)村の設定は七か宿から出された訴願に対する浦和宿宛のものであると推測されるから、ほかの六か宿の定助もこの時設定されたと考えてもよいであろう。浦和宿宛の書状の内容は、定助村を設定したので宿は遅滞なく継送ること、規定の駄賃銭以外の徴収の禁止、宿駅と定助とは平等に人馬役を負担し、脇道の継立といえども不法な駄賃を取らぬこと、上り・下りの荷を改め帳面に記し、出役人馬を記帳して紛争のない様にすることなどが定められている。定助の設定を願った大宮宿、定助村の設定を願い出た七か宿、定助村が設定された浦和宿とは、それぞれ個々の事例であるが、これらを次の様に関連して考えることができるはずである。寛文八年の定助設定の願いは大宮・浦和をはじめ複数の宿駅から出され、それによって翌九年定助が設定されたのである。
定助郷の設定に至るまでの在郷人馬の徴発を知るものに上尾宿の例がある。明暦三年(一六五七)四月老中は上尾町近郷に宛て、京都から宮家の娘が下向するが上尾町で人馬が不足するので、三~五里以内の村は伊奈半左衛門・伊藤安兵衛から命ぜられたら遅滞なく助人馬を出すことを命じている。その後も上尾町では人馬が不足するとして度々江戸へ出訴した結果、寛文四年(一六六四)八月に老中から再び同趣旨の書状が出されてようやく継送ったが、町中の者は困窮迷惑していると述べている。また、翌年には、かつて上尾町では大宮・鴻巣領の幕領から助人馬を雇っていたが、五年前の知行替えにより、それらの村が伊奈氏の所領になったので雇うことができず困っていると述べている。
二つの例から、宿で人馬が不足した時は同領(幕領)の近郷から雇っていたが、領主の知行替えによりそれが不可能になったこと。また領主からの命によらなければ助人馬を出す必要がないことが知られる。従って、寛文五年ごろまでは、上尾宿の人馬で足りない場合は領主からの要請により同領の近郷諸村から雇う方法がとられ、特に助馬村というものは設定されていなかった。しかし、知行替えによって他知行所が入り混じると領主役としてのそれが不可能になり、解決方法としては個別領主権を越えた公権=幕府権力の介入であり、老中奉書であった。このように宿駅人馬の負担が限界に達すると、宿駅機能の保持のために新たに人馬を徴発する地域を設定する必要に迫られるのであり、その要因としては全体的な通行量の増加は勿論であるが、寛永年間から開始された「地方直し」による小知行主の増加が同領域からの人馬徴発を困難にさせたのであろう。
宿駅人馬の不足という実情を反映してかは未詳であるが、寛文五年十二月には宿駅から二里未満にある知行所および幕領の諸村で書きあげ、村数六四か村その高ー万五五五〇石、家数ーーニ〇軒を関東郡代に提出している(『県史資料編一五』No.九)。宿駅との距離や家数の書上げから推測すると、助馬村設定のための調査ではなかろうかと考えられる。

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